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2005年8月21日 (日)

子供と共有するゲーム

相手が高校生であれ、社会人であれ、、また自らが学生であれなんであれ、ある程度同レベルのスキルを共有可能な年齢であれば、嗜好の合致の上で(まぁそれが難しいのだけども)大抵のソフトは勧め勧められ、という状況になる。しかし相手が未就学児であったり、我が子であった場合は、全く別の対処法が適用される。要するに「視点と経験の差」を考慮しなければコミュニケーションすらままならないということだ。

僕は別にそれほど子供がゲームをやることに抵抗がない。むしろ以前一緒に遊んでいた友人がいなくなったかわりになってくれたら言うことナシ、というくらい前向きだ。小遣いは全く与えていないが、僕の眼鏡にかなったタイトルであれば、本人の意向に沿って購入することはやぶさかでないし、現実問題彼の年齢(小4)で、我が家ほどゲーム環境が充実している家庭(親の理解(というか趣味)も含めて)は日本でもたぶんベスト100くらいには入るのではないかとも思っている。

だが、一緒に楽しめるというのはなかなか簡単なことではない。

僕はたびたび「初心者や女の子でも楽しめるゲームとは」という命題に思いを巡らせる。自分のゲーム観と一般的な「善し悪し」をすり合わせる上で、「素人」の視点は絶対蔑ろにしてはならないと思うからだ。初心者に優しく作られたゲームは全体通して細やかな配慮がなされている事が多い。例えばソレはFPSだろうとRTSだろうと対戦格闘だろうと弾幕シューティングだろうと同じ事だ。

「ボタンを押して画面に結果がフィードバックされる」というのは当たり前のことのように思えるが、実はそうではないものも多い。正確には「そう感じさせないモノ」というべきか。変化に乏しい単調な道中や、どのボタンを押してもカット出来ないデモ、いくら敵を倒しても成長を実感できないRPGなども「結果がフィードバックされる」とは言い難い。5歳の娘と9歳の息子の前に起動されるタイトルは例外なくそのフィードバックが確実に見えるものだ。そしてその中には僕らが十分楽しめる芽も多分に含まれている。

現状僕が長男に「楽しいからヤレ!」というゲームを、彼が楽しめないということはなくなった。それは彼が僕の立ち位置に近づいていることももちろんあるが、それ以上に僕が彼でも楽しめるタイトルに寄っていることの方が強い。単純な繰り返しでも、それが必ず報われるとしたらその繰り返しは無駄ではなくなる。ちょっとしたきっかけでモチベーションの引き金が引かれるとしたら、僕が彼の代わりにその「きっかけ」を見つければいい。経験がものを言うのは既にゲームクリアに対する技術ではなく、「楽しむためのコツ」を見つけることに近い。

「まわるメイドインワリオ」のスキージャンプというミニゲームで、彼が「193mだ!」と喜ぶ。父ちゃんに貸してみろ、とプレイ。1プレイごとに(僕なりの)データを取り5回目に200mを越えた。「父ちゃんスゲェ!」。その後僕の記録は231mまで伸び、彼にDSを返した数分後、「父ちゃんの記録越えた!」。それでいいと思うのだ。

「エスプガルーダ」。一昨日僕は初めて4面に到達すると同時に、覚醒を使った「緊急回避」と「点数稼ぎ」を両立した楽しみ方を見つけた。長男はさほど乗り気でもなかったが、昨夜「黙ってやれ!」と半ば無理矢理彼にプレイさせた。覚醒を使うタイミングとその意味、そして結果として彼自身の手で自己記録を大幅に更新させる事実を見せた。そのプレイはわずか2回。「面白くなければやらなくてもいい」そう言ってその日のプレステは電源を切られた。

今朝、僕が起きると画面にはエスプガルーダが映っていた。「父ちゃん、父ちゃん、1面からもっとガンガン覚醒使っていった方が稼げるかも!」。僕の見ている前で彼は初めて2面をクリアし、スコアは昨夜の自己ベスト200万点を大きく更新した600万点を記録していた。「父ちゃんまであと70万。もう少しだ」。父ちゃんももう少しだと思う。

※実は下の娘もエスプガルーダをやっている。気軽にコンティニューして僕らより先の面まで見てしまう。でも彼女は笑っているし、僕もそれでいいと思うのだ。

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