ラブストーリーとアキバ系
昨日少し書いた「一人でラブストーリーの映画に行くのは、電車男に共感するより寂しい」という話を、今日になってかみしめてみました。
「電車男に共感する」とはとどのつまり「アキバ系の趣味を受け入れる」ことだと自分では理解していますが、それはズバリ「自分の中の世界」をより完成度高く構築していくスタイルを指します。一昔前ならそれは広義に「オタク文化」とか「マニア志向」であったと思うのですが、先日のテレビチャンピオンを見る限り、近年では「ギャルゲー文化」に偏っているように思えました。
以前「電車男」の部屋のディティールに関して、「ギャルとガンダムと怪獣が同居しているのはおかしい」という突っ込みをネットで目にしました。最初は「うん確かにそれは言えるかも」とその時は思ったのですが、テレビチャンピオンを見る限り、「ゴジラと制服」は同居してた。つまり、第三者からのイメージ以上に当事者の趣味は多彩であったり、対応はフレキシブルであったりする。中にはそりゃぁ一極集中の「道」に入っている人もいるだろうけど、僕のようにゲームもやれば怪獣映画も見るし、ガシャポンも回す人だって当然のようにいる。となれば前述の「ギャルゲー文化に偏っている」という印象とは矛盾するかに見えますよね?
でも実はそうじゃない
「ギャルゲーに偏っているように」は「見える」のであって、「現実には多彩」なのです。しかしそれはあまり重要なことではなかったりもします。「そう見える人(見る側)」が感じたことはそこで真実となり帰結する。現実には「理解し得る感性」であったとしても、第一印象で「無理」となったものを覆すのは非常に難しいのです。だから逆に「電車男に共感することが出来る」というのは、そのスタートラインから既に内側にいる、もしくは「いた」ということになり、「受け入れる」という表現ではなく「(既に)持っている」ということになる(気がするんですけど、、、間違ってるかなぁ(^^;)。
ここで本題にもどりますが、そんな「アキバ系」の人種は、実は「寂しがり屋」ではありません。確かにリアルな彼女も欲しいですし、友達と普通につるんで遊ぶこともあると思います。少なくともオンラインでの友人は少なくないはずです。
※「同好の士」によるコミュニティがしっかりと形成されていれば、その中でのアイデンティティが確立されているから。
もちろんコアな人の中にはゲームのキャラに恋しちゃって、というケースもあるでしょうが、それとて自らが構築した自らの世界の中で生きているのですから、寂しいとは違うと思うわけです。
でも!
ラブストーリーを一人で行くのは別。もちろんこれはアニメのラブストーリーではありません。実写のドラマを指しますが、対象にリアリティがありすぎると、自らの世界を構築する妨げになる。僕自身の立場を全く顧みずに言えば(^^;)、「仲間由紀恵は出しても、オダギリジョーはシルエットで!」(※「シルエット」というのがミソ。「モザイク」ではダメなのですよ!→あ、念のために申しますが、僕自身はシルエットじゃなくてOKです(^^;。っていうかオダギリ・ジョーって真田広之に通じる数少ない「かっこいい日本人の男優」だと思うし)。そうでなければ、見ようという気持ちから見終わった感想まで「孤独」がくっついて離れない。
僕も内側の人間なんだろうと思う今日この頃。「絶対領域」とか「先行投資」とか初めて昨日知ったけど、悲しいかな首を縦に振ってしまう。なんとなく頬を伝うものがある気がするのは、たぶん気のせいでしょう。
| 固定リンク
« だらだらと音楽の話 | トップページ | 秋風 »
コメント