ゲームはアンティークになりえるのか
まぁ僕は全く興味がないのだけれど、昔の物をありがたがる方が世の中にはたくさんいらっしゃいます。つか古ければ古いほど良いとされるものも結構な数ございますが、それって純粋な美的センスの上で価値を見いだす場合と、懐古主義的な、そのアイテムの背景にある物語に思いを馳せる場合、単純に金銭的価値による場合などもあるように思います。
インターネット時代。それは数年前からテレビで言われているようなおっさんおばさんが口にするようなものではなく、主に目や耳から得られる情報(時にはこちらからの発信も)、物としての価値観を大きく揺るがすような「波」が押し寄せてくる時代。そして今がその前夜なような気がします。
前述のアンティークの価値でさえ、「物」として所有する意味は、それに直接触れたり、香りや温度、重さを楽しむこと、(数年来倉庫の中にしまってあるとしても)「持っている」というメンタル面での満足が中心となるでしょう。正直超高解像度の画像や、緻密なポリゴンによっての「仮想所持」が実現すれば、「こと足りる」と考える人も出てくると思うのです。現に子供達の思い出の作品をいつまでも残す手段として、デジカメに収めておく、そして現物は破棄するという流れが出来つつあったりするくらいなのですから。
そこで思うのは僕の大好きな娯楽達です。映画や音楽はもとからパッケージングされた物というイメージが希薄でした。街には有線放送が流れ、車でもラジオが、テレビを点ければ毎日のように映画を見ることが出来ます。ラックにDVDやCDを大量に並べ一人悦にいるという娯楽を楽しんできた層でさえ、i-podの利便性や純粋に音楽を楽しむために何が必要で何の優先順位が低いのかということに対して意識し始めている人も少なくないことでしょう。実際パッケージでは販売しない、ネットや着うたオンリーという販売形態を取る曲も少なくなくなってきました。
ゲームにおいても、これまでは説明書等にアイデンティティがあったものが、最近では多くのゲームがゲーム内だけでルールを把握出来るように作られるようになりました。遙か昔、「ドア アケル」などという言葉を見つけることそのものがゲームだった時代がコマンドを選択するようになったのと同様に、DOSのコマンドラインからPCを操作する時代がマウスをクリックするようになったのと同様に、より快適によりわかりやすいレクチャーが求められ、向上する世の中になってきたのです。
そうなるともはや元から「触れることの出来るオブジェ」としてのアイデンティティが希薄なゲームは、自然淘汰されるのはほとんど避けられない未来なような気もします。高速での通信網が完備され、家にいながらにして世界中の誰とでも発売日に一緒にプレイ出来るような世の中になっていく。画面の右側に友達の顔がテレビ電話のように表示され一緒にしゃべりながら遊ぶという状況は、子供の頃近所に遊びに出かけた時に得た原体験となんら変わることがないはずです。
正直言って今手元にあるパッケージゲームの、「パッケージ部分」にはほとんど価値を見いだせません。説明書に関してはゲームによってはプレイしながらではフォローしきれない部分が現時点ではありますから、なかなか手放すというわけにはまいりませんが、近い将来ゲーム中に攻略サイトやWikiなどへのリンクが張られたりすることもあり得ない話ではなくなるでしょう。あれほど買い集めたファミコンやスーファミやPCエンジンのソフトも、すでにタンスの肥やしとなって久しいのです。
じゃあもうこのままオクでの価格も低下の一途を辿るのか。
以前GTSさんのページでデッドストックのファミコンがオクで凄い価格になってるという記事がございました。他にはPCエンジンLTとかGTなどが、何倍何十倍という値段まで跳ね上がったのです。これを購入したいと考えていた人は、まず間違いなく「やりたい」からではないでしょう。それは「欲しい」からであって、そこから得られる情報ではなく、それそのものに、それそのものを所有するという事実に大枚出そうと思うわけです。
ゲームはアンティークになりかけている。
僕自身作るあてのないレゴが寝室の頭上に並んでいますが、これを見るだけで何とも言えない満足感に満たされたりします。積みプラや積みDVD、積みゲーに同様の感性を引き出される人もきっといるでしょう。正直言って高価でないなら、新品未開封のまま持っていてもいいかな、と思うようなタイトルすらございます。生まれて初めて買って貰ったゼビウスとエキサイトバイク。MISB(ミントインシールボックス=未開封美品)が目の前にあったら、定価とはいかないまでも凄く欲しい衝動には駆られてしまうでしょう。ファミコンミニが内容の割に結構な本数をさばくことが出来たのは、そうした「アンティーク志向」を刺激したからかも知れません。
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ついでに未来のゲーム流通についても少し考えました。とにかく高速で通信出来るようになり、パッケージソフトが簡単にネットで落とせるようになってしまうと、当然のようにコピーされてしまう世の中になってしまいます。僕が考えたのは「ソフトは一切売らない」というスタイル。つかホントは僕が考えたわけでもなんでもないのですが、要するにゲーム自体はメーカーサーバーに置いておき、ネットでアクセスしてプレイするスタイルがもっと進化していくのではないか、と。いくら通信速度が上がろうともユーザーのPCやゲーム機の中にソフトウェアをインストールしなければスタンドアローンでゲームは出来ません。もっと言えばそのゲームのサイズが桁外れに大きければ、ユーザー側がそれを自身で構築しようとは思わないでしょう。
モニターに表示される映像はハイビジョン放送レベルであれば、正直必要十分という気がします。そのレベルの画質のまま双方向でやりとり出来さえすればいいのですから、現時点では無理でも、そう遠からぬ未来には携帯機、次世代ワンセグ受像器などでもきっと可能になるのではないでしょうか。
パッケージや説明書、流通に掛かるコストが全くなくなる代わりに、サーバーやセキュリティの管理が非常に重要になっていく。お金を出して「遊ぶ権利」を買う時代が来るのです。
何十年か何百年か後、まだ地球が存在していたとしたら、、、
「大昔のゲームはこういう物の中に入れられて売られていたんだよ」
そんな風に歴史の授業に出てくるかもよ?
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