友達いない
なんつか自虐的なことこの上ないこの表現。初めて目にしたのはたぶんHEY3で中森明菜が言ってた時だったと思う。
「わたし友達いないから携帯いらない」
最初聞いたときはなんかスゲェ悲しい感じがしたし、実際幸薄いオーラをまといまくってる明菜ちゃんは「寂しい歌を歌っているけど素は結構強め」な中島みゆきとは一線を画する感じがした。
次に耳にしたのはラジオで伊集院ひかるの言葉。なんつかいろいろありすぎてピックアップも難しいのだが、要するに自分が傷つかない為に後輩にまで凄く気を遣ってる伊集院に、いつものはっちゃけた表面の裏側をかいま見た気になったりした。
南海キャンディーズの山ちゃんもなんかそれっぽい話をしたりしたし、萩原流行も「友達いない」を明言してた。
ハヤリなの?
友達がいないということは、誰かに伝えたいことがないということだと思う。何かを共有したい気持ちというのはある意味自己顕示欲の顕れで、特に受け身が得意な聞き上手(その実ストレスを貯めがち)な人を除けば、実際友達のアイデンティティってのは相対的に発生する自己確認の娯楽ということになるような気もしないでもない(かなり弱気なのはそれが全てではないとわかっているからで、本音としてはその要因が捨てきれずあるとは思ってたりするのですが(^^;)。
しかし、それをあっさり否定して「いなくても大丈夫」と言えるということは、第三者の手を使わずとも自分は自分を肯定し、愛することが出来る。自立できると言うことに他ならない。仕事上のコミュニケーションは別としてプライベートでは自分だけ見ていればむしろ気が楽、一人でいるときが一番楽しいという人は結構いると思うけど、要するにそれ=「友達いらない」≒「友達いない」ということになりはしないだろうか。
友達がいらなくなった背景には、インターネットも無関係じゃないと思う。今までだったら友達や先輩や家族などの「つて」を使ってしか得られなかった「コミュニティを楽しむ娯楽」が、一切のしがらみなく「字面だけで」得ることが出来る環境は、正直リアル友達の必要性をどんどん否定しうる。
また、情報そのものも誰彼頼ることなく自力で集められたりする。行きつけの店に何度も通い詰めなくても、レアカードやアンティークをあっさり購入することが出来る。
年を追うごとに身の回りの人間はどんどん様変わりする。学生時代のように近所の友達と遊ぶ機会は社会人になれば急速に消え失せるし、結婚して子供が出来ればこれまた全く違う人間関係が形成される。一人でいることが許されなくなる場合も多いだろうし、それによって失われる「自分らしさ」みたいなものもきっとあると思う。でもそれを否定し、あがきたいという欲求が強くなった場合、人は自分から他者との関係を避け始める。そしてそれを明言することに抵抗が無くなる。自分が望んだ道なのだから、他人が憐(あわ)れもうと蔑(さげす)もうと関係ない。
最近ハマってるしょこたんなんかも、明言はしないまでもかなり「友達いらない」ニオイがする。ブログの読者は不可欠だけど、一方でそれが特定の人間になり得ない。自分が自分であることが何よりも大切で、そのためにどんどんコミュニケーションを計る一方でそれそのものは目的になり得ない。あくまで手段としてのコミュニケーション。
ああ自分もそうかもなぁと思う。
割とアクティブに友達と連絡を取ったりしてるけど、今ふとどこかに鏡を置いてないかと思ったりする。でも一方でそれが凄くイヤな自分もいる。一人でいたくないと叫ぶ自分がいる。
無人島に何か一つ持って行くとしたら、、、
今の世の中多くの人が携帯電話だと答えるだろう。しょこたんもそう言ってた。でもちょっと待て。重要なのはその電話の先にいる人なのか?それともその電話に表示されるメッセージなのか・・・。
意外と「友達いない」人は多いかもしれないな。
つか自分が言いたいことがしっかりまとまってないのに書き始めちゃったからスゲェ内容が支離滅裂な上に意味不明だ。まぁごめんなさい。
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