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2008年2月13日 (水)

孤高の人になる勇気

友人トムニャットさんのmixiにCARASさんという方がコメントを寄せていて、その中にこのセンテンスがありました。

※勝手に抜粋

「正しいと思う事を正しいと言えない。言えば村八分にされてしまう状況。孤高の人になる勇気がないのです」

ふむ。今日珍しくかみさんが娘や息子の取り巻く環境について、手強い級友がいるというまぁ愚痴めいたことを話してきた。簡単に言えばいじめっ子なわけだけど、ちと根が深くなっているのはその両親が「そういうこと」に口出しをするタイプであり、かつ状況の把握がワンサイドである点。

対象が子供であれ恋人であれクラスメートであれただの知り合いであれ、こちらに血が濃い方の意見を鵜呑みにしやすいのは致し方ない。だが、僕はそう言うとき「絶対に」平等でありたいと思う。「絶対に」だ。

僕は幼稚園の頃はいじめられっ子で、小学生になってやや立場が逆転した、というかまぁ体格が比較的標準より大きくなったことで発言力が増した。だが出る杭は基本的に打たれるもので、先生にはよく「協調性がない」と叱咤され、同い年はともかく、上級生にはあまりというか割と嫌われてる感があったりした。

そんな僕の心の糧となったのは小五の時担任に言われた、

 「正しいと思うなら貫けばいい。だがそれが間違いだと気付いたら素直に謝れ」

という言葉だった。自分が正義である自信と根拠があるなら、周り全て、たとえば先生や親や友達全員を敵に回しても「自分だけは信じてやれる」。自分すら信じられないような「意地」なら最初から張るべきじゃないし、過ちならばきっちり反省すべきなのだ。

僕はよく敵を作る。好きか嫌いかを明言するし、その理由も明確化する。中には顔が嫌いとか、心が読めないのが嫌いとか普通の人からしたら「そんな・・・」と思われるような理由もないではないが、基本好きか嫌いかなんてその人ごとの尺度だから別に問題ない。ただ重要なのは、その理由を貫いたとき、周囲の人間が「仕方ない」と思ってくれるか「それはいくらなでも」と反論するかだ。もしここで「いくらなんでも」と思われるような理由であるなら、それは自分の価値基準に不平等な点があるということになる。

僕は中学の頃特にこの「平等」「公平」という点に関してうるさかった。一回殴られたら一回殴り返してもいいだろう?ジャンケンは多数決より平等だ。理由もなくNOにされるのはたとえ先生や教科書ガイドや広辞苑にそう書いてあったって納得しない。作者の意図がどこにあったのかなんて、本人だってわかってないかも知れないのだ。

僕はとりあえず娘に「もっと頭が良くなればいい」と言った。かしこくなれば自分がどうすれば自分の身を守れるか、自分が「正義」になるのかが見えてくる。ただ泣いたり逃げてばかりいては、状況は好転しない。僕は子供(自分の子に限らず)に対しても平等や公平を求める。子供が「そうだ」と言っていてもそれは信じない。なぜならそれは「そうだと思っているだけ」である場合がほとんどで、事実は大抵の場合別のところにあることを知っているからだ。いや、そもそも人間全てにそれは言える。誰もが本当のことを言っていないと思っていた方が、みんながみんな真実を語っているとするよりはるかに正解率は高いのだ。

だが、これは「ウソをついている」と言っているわけではない。

子供の言うことは信じないが、ウソもついてはいない。ただ自分の間違いに気付いていないだけなのだ。言い換えれば「自分の間違いに気付くこと」が「かしこくなること」だと言ってもいい。そしてかしこい選択をするために必要なのが、ルールが皆に平等であるという前提になってくる。そうでなければ真実は簡単にゆがめられてしまう。それは「絶対に許せない」のだ。

僕は今でもまだ十分すぎるほど協調性がない人間かも知れないが、コミュニケーションを取った方々の平均よりは「状況次第の正解を導き出すスキル」が高いかなぁと思う。こう書くとまるで自己防衛本能が高い、みたいな感じに取られるかも知れないが実際はたぶんそうじゃなく、「勝ちに行きたい」のだと思う。正論を言いたくて仕方ないのだと思う。ただ、それが相手次第で(例えば学校であったり、個人のお客様であったり、他の生徒の親御さんであったり)「正解と正論のズレを吸収する必要性」をくみ取るだけのことなのだ。

 かしこくなるということは、負けなくなるということなのだ。

そしてそれは、

 孤独が怖くなくなる

ということでもあると僕は思う。

先週の週刊アスキーの仮想報道で、ミクやブログで他の人と繋がっていること、自らを晒すことで一人じゃないことを確認し続けることがこの文化を支えている的なことが書かれていた。ふむ。確かにそれはあるかも知れない。誰かが読んでくれるから誰かがコメントしてくれるからがんばっていろんなことを経験し、告白する。僕もそうなの・・か?

僕は正直言って聞き上手じゃない。しゃべりはたぶんかなり達者な方だと思うが、相手がお客様だったり先生だったりしても結構なんつかしゃべりづめにしゃべってしまう。ただ、最初から相手がこちらに敵意をむき出しにしていない限り、最後に相手を気持ちよくさせることにはこだわりがある。具体的に言えば、いかに相手の意志を正確かつ迅速にくみ取り、「相手以上にわかりやすくまとめて問う」ようにするか。

 「・・ということですか?」

というように。もちろん全てが全て正解にはなるはずもないが、重要なのは相手の方を向いているということが相手に強く伝わるかどうかなのだ。別に嫌われてないなら、僕の話を最低限聞いてくれるだろうし、相手はそこで気分を害したりはしない。しかしそこで限界まで「届く言葉」を探して話すことは、結論相手のコメントの余地を無くしてしまうことにもなりかねない。だから、

 ブログへのコメントはうれしいけど、正直感覚的なものになってしまうんじゃないかと思うわけさ(^^;。

読んでくれている人の数が最近は結構多い。一時250人くらいまで減っちゃったけど、最近は一日平均650人くらいの方がウチのブログを読んでくださっている。はっきり言って素直にうれしい。
※ただその中のどのくらいの方が「僕の文」を読んでくださっているのかはわからないが。ただちょっとした情報を求めているのかも知れないし、たまたま検索でヒットしたから覗いただけってのもあると思うし・・。

でもこのカウンターが機能する前だって僕は休みなく書いてきた。コメントがないから更新もやめるなんてこともないし、誰もコメントしない、検索ワードでヒットしないようなネタでも書きたいものを書く。

 女の子には全くモテないが、とりあえず僕は僕が好きなのだ。

みんな自分を好きになればいいと思う。好きになれるところを見つけてそれを伸ばせばいいと思う。そうすれば笑い方も見つかるし、「好きこそものの上手なれ」でどんどん歩けるようになるはず。

 孤独はひとりってことだけど、「ひとりいる」ってことは忘れちゃダメだぜ!

 ロックンロール!<支離滅裂をごまかす魔法の言葉。

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コメント

こんばんは。CARASです。
ここはずうずうしく、『私の為に』叱咤激励をしてくださったのだと受け取り、お礼を言いたく思います。ありがとうございます。

この叱咤激励文を読ませて頂き、2点私が大事にしている、もしくは大事にしようとしてる事がありましたので、まずはそのことについてコメントさせて頂きます。

まずは1点目。
『正しいと思うなら貫けばいい。だがそれが間違いだと気付いたら素直に謝れ』
ニュアンスは若干違うかも知れませんが、私の心にも同じ様な言葉が刻まれています。
『正しいと思うのなら、それに従い発言すればいい。しかし間違いと正され、それを納得(理解)出来たならば非を認めなくてはいけない』
私の恩師は『話し合い』を大事にしている方で、なにかあればよく議論の場を設けてくれました。『思っているだけではなにも変わらない、声を発しなさい』とも言われました。
なのに何故今、『声を出す』事が出来ないか・・・。
それは2点目のルールにも関係してきます。
『ルールが皆に平等である』
この前提がなされていないのです。
弱肉強食、強者の世界。お前らは俺らが気分良く過ごせる環境を作れ。言いたい事があるなら、それが出来てからにしろ。
誇張表現かも知れませんが、事実根底にはこのような考え方があるのです。

こういった環境下で、発言し且つ一定の理解を得るには
『自分を認めさせる』ことが一番の近道だと思っております。ただ『自分を認めさせる』為には時間が必要なんですが、時間に余裕がないのです。ここでも心の葛藤が生じています。

私は組織の中の一個人ですから、業務に対し支障をきたすような形で争うことは出来ません。

今の自分に出来ることといえば、自分の言動・行動を律し、少しでも早く発言に力を持たせる努力のみです。発言した事に対して揚げ足をとられることがないように・・・。

業務に対し、なんの支障もきたさないのであれば孤高の人になっても構わないかなという思いもあります。が、上記のような環境ですので業務にも支障をきたすでしょうし、孤高の人どころか下手すればキチガイ扱いされかねません。

発言したいことは大した内容ではないんですよ。
ただベクトルの修正を促したいだけなんです。時代に即したものに・・・。

すいません、結局愚痴になってしまいましたね。

投稿: CARAS | 2008年2月13日 (水) 22時05分

あらためてこんばんは。つか失念していて(1年以上ぶり?)ごめんなさいクリスです。コメントどもです(^^)。

「話し合い」というのは凄く大事だと思うのですが、本当に話し合いが大切な場面において人は往々にして感情的になっていたりするもの。僕は小売店という仕事柄お客様に対しては「全面的に受け」のスタンスをとりますが、問屋やメーカーに対しては「イーブン」でありたいと思い、それも口調ややりとりに出てしまいます。それは立場を考えれば当然のことだと僕は思っているのですが、相手にもそれを強いてしまうんですよね。CARASさんがおっしゃる、

 「平等である前提がなされない」ことを許さない、もしくは許さないでも許される立場にある

というか。
※ただ勘違いなさらないで欲しいのですが、お客様が黒だと言えば例え白でも黒なんですよ。これは「これが商売における平等」だという話。

うーんやはり自分が長男で店長である以上、組織の中の自分というものに向き合いようが無いのかも知れませんが、何て言うか、

 自分(僕)を否定することに正当性がない上司

というのはどうなんでしょうか。いやCARASさんがそうおっしゃってるわけじゃないのですが、僕なら自分より下の者に向き合うときは出来るだけカードをたくさん持つ努力をし、上の者に向き合う時は少しでも鋭さを増すように言葉に磨きを掛ける努力をするかも。
※去年退職しましたが叔父が上にいたりしたので。あと母親も上司と言えば上司ですが、ここはやはり甘さが出てしまいますね。まぁ僕的に自分より働いている者に対してはどうあっても敬意を払ってしまうので、あまり言葉を貫くようなことはないのですが。

凄く生意気な言葉になってしまうかも知れませんが、やはり一枚一枚カードを増やしていくしかないのかも。

>ベクトルの修正を促したいだけなんです。時代に即したものに・・・。

自分がどれだけ会社に対して親身になっているのか、お客様に対して、取引先に対して誠実であるのか、、、いや、僕の場合はもっと働く時間を増やすべきなんですよね。気持ちと言葉だけでは伝わらないものも多いですし。
※それも1枚のカードであるわけですが。

結局のところ「弱肉強食」は真実なのだと思います。ただ、強くなるために必要なのは時間だけじゃない気がする、時間以外にも強くなれるファクターはあると思いますよ(^^)。

TOMNEKOさんじゃないですが、逆境で育つモノも絶対あると思いますし、正直自分も決して安定してるわけじゃないですが、気持ちや考え方で「何とかなるウェイト」は決して少なくないと思います。ご存じかどうかわかりませんが、吉田聡のマンガ「スローニン」の中にある僕の大好きなセリフで締めたいと思います。

「どうにもならないなんてことはない。大抵の場合はどうしていいかわからなくなっているだけだ」

正解が見えなくても正解に近い道なら見えるかも知れない。正解かどうかわからない道でも、いや、むしろ間違っている道だったとしても、それが間違いだったという答えが見つかることに意味がある。お互い学び続けましょう!(^^。

投稿: クリス | 2008年2月14日 (木) 01時38分

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