知らなくてもいいこと
世の中には知らなくてもいいことがたくさんある。っていうとなんだか凄くHEAVYな話のようだけど、新聞も読まないニュースも見ない(ニュースサイトにも行かない)僕の様な世間知らずでダメな大人は、いわゆる普通の大人が「知らなくてはダメだ」と意識している多くの事象が既に「知らなくていい」ことになっていたりする。実際自分の身に降りかかる無関係ではないことも少なからずあるだろうが、「困る前に困る」のはぶっちゃけもったいないというか、言葉は悪いが一種の杞憂という気もしないでもないのだ。お腹が空く前に食べ物の心配はしたくないし、子供が小学生なのに私立大学の学費のことで頭を痛めたくない。「そのうち何とかなるだろう」というほど楽観視しているつもりはないが、
上手く知らないでいられたら、人生はちょっとだけ楽になる
というのは結構真実だと思う。親や兄妹を殺しちゃうような人でも、その人が友達に対してまで怖い人だとは限らない。クラスにいじめがあっても、いじめられている子といじめている子の両方と仲良く出来るなら、その「いじめ」は僕にとって知る必要がないことだと思うのだ。
僕の長男の隣の隣のクラスはなんだか凄くすさんでいて、あとから聞いた話では卒業式のボイコットだとか親達を呼んでの緊急集会だとかの話もあったらしい。でも僕はそんなこと知らなくていいと思った。なぜなら、そのクラスの中にも長男の友達はいるし、その子と接する上でその情報は僕に何もプラスにならない。いつものようにいつもくる友達同様軽口を叩きながら、モンハンやDSのゲームの話をし、オレ様がどれだけダメな大人でゲームが大好きなのかを知って貰い、「そういう人」として彼自身が僕を認め、僕が彼を認めればそれでいいと、少なくとも僕は思う。周りの大人がどう思うかはわからないが、僕は僕の価値観で子供達と接していきたいと思うし、それが間違いかどうかなんて、誰にもわかるはずがない。
子供は小学校の3年くらいにもなれば十分自我に目覚める。「子供扱い」されることに抵抗感を覚えるようになる。僕自身子供な部分も多々あるが、逆に子供の頃から大人びていた部分もあった。だから僕は決して子供を子供扱いしない。例えばゲーム一つとっても、「父ちゃんだから上手い」とか「大人だから知っていて当たり前」とかいうリアクションはウチの子供はしない。
上手いのはそれだけそのベクトルでの経験が豊富だからだ。
例えばスマブラでもマリオギャラクシーでもファイナルファンタジータクティクスアドバンスでもいいが、長男が僕よりも圧倒的に長時間プレイしているタイトルに関して、長男は僕より上手く、知っていることがあっても決してそれを鼻に掛けたりはしない。たくさんやってれば上達するのは当たり前だからだ。
他のことだってそうだ。子供は子供の経験がある。中には当然僕らがその頃に経験出来なかったことだってたくさんある。それらを見ずに、「全ての経験が薄い人間」として子供を扱うことがどれほど横柄なことか。毎日を消化と浪費で過ごす大人よりも遙かに子供の方がいろんなものをいろんな見方で経験出来る可能性があることをもっと大人は知るべきだと思う。ヨーヨーだってペントリックスだってスピードスタックスだって大人以上にスキルを磨き上げる子供はいっぱいいる。それは十分年齢を超えて尊敬に値するスキルなはずだ。
だから僕は子供に甘えさせない。僕の子供は僕に「お願いだから・・・」とは絶対言わない。「ゲームをしてもいい?」とは聞くが「お願いだからやらせて」とは言わない。お願いとは相手の甘えに付けいる行為。許可とは違う。
※つってもゲームの中で欲しいアイテムとかカードとかがあって「お願いだから頂戴」ってのはあるけど(^^;、それはそれね。
結局体罰だとか責任だとか人権だとか騒ぎすぎる愚かな親、子供のことを見てるようで見ていない親が、子供が本来育むべきマナーを食い潰している気がする。ウチに来る子供の友達も挨拶にスゲェ気合いが入ってるヤツとか、成績は悪いけど言葉遣いが丁寧なヤツとかは僕も結構好きだったりする。
つかホントはこんな重い話をするつもりじゃなかったんだよ(^^;。なのでこっからがホントにしたかった話。言わばこっからが本題だ。
こないだ実家で自分の卒業アルバムを探していたら、昔買った雑誌とかレコード、高橋留美子の自薦複製原画集とかが見つかる中で、凄く気に入ってたソフビガレージキットの「零式レイバー」が見つかった。タバコのヤニで真っ茶色に染まった状態で。
※ちなみに一緒に置いてたグリフォンはあんまし変わってなかったけど(^^;。つかむしろ深みが出てるみたいな?
まぁお袋も妹もタバコを吸ってたので、その部屋の本棚に飾っていたら当然そうなるのはわかるんだけど、心のどこかにはまだ綺麗なまま箱の中にしまわれっぱなしで、一生見ることはないかもしれないけど、でもどこかにあるって思い込んでいた零式が、よもやこんな無惨な姿になっているなんて・・・。
知らないなら知らないままの方がよかった。
屋根裏にあるマンガや作ったプラモが入った箱。周囲にはネズミの糞が散乱し、今でこそいなくなってはいるが、たぶん想い出が汚されているのも間違いない。さすがにそこで何かを探そうという気持ちにはなれなかった。
寝室の棚の上にあるレゴだって、下から見る分には別段さほど汚れてはいない。でもきっと上から見たら埃まみれになってるに違いない。もしかしたらプラモや未開封のレゴも、雨漏りやカビで箱がフニャフニャになってしまってるかも知れないし、自重に耐えられずに潰れて壊れてしまってる可能性だってある。想い出は永遠だが、その想い出の中に一歩でも足を踏み入れようものなら、そこにはかつての想い出は面影すらなくなっている可能性がある。
好きだった子が結婚してたらショックだろうって思う。でもそれ以上にとんでもなく太っていたり、老け込んでいたり、死んでたりしたらとも思う。実際はむしろそういう可能性の方が高い。2、3年前に会ったのならいざ知らず、中学高校からずっと会ってなかった子がそのままなワケがないのだ。
でも想い出の中では凍結している。
あと伊集院がラジオでこんな話をしてた。
「ポケットを探ると1000円札があるから、もし何かあったら帰りはタクシーで帰ればいいや、とジョギングに出かけた。調子が良かったので目的地からそのまま家まで帰ってきてしまったが、家について1000円を取り出すと、それはレシートだった」。
ちょっとゾッとする反面、目的地でその事実を知ることにならなくてホント良かったよなって思う。何か息苦しさを感じる真実はいっぱいある。
久しぶりに昔のゲームを起動したらセーブが消えてたってのもそう。何十時間も掛けて育て上げたキャラやアイテムが「今この瞬間に消失した」わけだ。それまでは真実がどうあれ、自分の中では確かに存在していたものが、触れた瞬間に霧散する怖さ。
中学生の頃の自分が書いた日記の記憶。おぼろげながらいいことを書いてた気がするだけの記憶。もしそれを読む機会があったとしたら、果たしてそれはその時の輝きのままだろうか。
ブログだってそうだ2年前にスゲェ自分で上手く書けたなぁなんてネタ。今もそれが楽しめるとは限らない。音楽だって好きだった曲を「今でも好きでいられている」保証はないし、映画とかでも見直してみたら思ったほどじゃなかったってのは結構ある。
※特にゲームは危険だと思うんだよね。今だったらエミュとかで昔のをあっさりやれちゃったりするじゃない?自分が凄く面白かったと思った作品を「今自分がやってどうか」のチェックをせずに第三者にやらせるのって結構キツイと思うんだよね。もちろんこないだのサンドラやドラクエみたいなケースもあるにはあるけど。
もちろん逆に「掘り返してみたら熟成が進んで輝きが増していた」ってこともあるかも知れない。20代前半の頃、小学6年の自分が書いた「もう小六だぜ?歳だし」みたいな文を読んで妙に嬉しくなったり、昔買ったプラモがヤフオクで高額になってることを知ったりするケースもある。
何もかもが「知らない方が幸せ」ってことはもちろんないし、何もかもが知らないでいられるわけはないが、出来るならその空気を察知して「あ、これは知らない方がいいことかも?」というのは取捨選択していきたい。
※ちなみにその中にはダイエット中の「お腹が空いた」という信号や、緊急事態での「トイレに行きたい」信号、遠足の帰り道に転んで怪我をしたけど血が出てるのを知らずにそのまま帰ってきて、母親に指摘された途端に痛くて痛くて立ってられなくなって涙ポロポロってのも含まれる。
そう言えばちょっと前になるけどブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーの「ミスター&ミセススミス」がまさにそんな感じの映画だった。お互いの素性を隠して結婚した二人だったが、それぞれが所属する組織から相手の抹殺を依頼され、、、みたいな。映画は全てを知った上でハッピーエンドになったが、現実にはそうも行かないことも多い。もっともだからこそこの映画が楽しかったわけだけどね。
一番いいのは真実を知ることでより幸せになれるってことなのかも知れないな。
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