想像力と妄想力と幸せの話
タイトル的にはなかなか面白そうと思わせておいて中身が全然伴わなかったりすると読み始めた方としては正直ゲンナリというかガックシというかザケンナって感じになるかなぁと思いつつもそういう話がしたくなったので仕方ない。期待しないで読み進めて頂きたい。
中学高校の頃からか割と「人ってのはそれぞれに常識がある」と認めるようになり、自分が思ってる以上に世の中にはいろんな人がいることを知った。というかまぁ自分のキャパを広げないとその外側にいる人に対応出来ない=排除、無視しがちな現実が得策ではないのだろうなぁと感じたりした。その人その人を認めることでそれこそ人の数ほどもある常識を自分の常識に加味していく方が、絶対的に人間の幅が広がるし、非常時というか自分の常識外の事態に直面しても対応策を練りやすいだろうとも思ったのだ。
ただ実際はそうそう自分のキャパを越えるリアクションというのはないもので、中高男女合わせて10人にも満たなかった気がする。まぁ大体男性であれば尊敬の対象になるし、女性であれば例外なく惚れてしまうのだけど、そのくらい「自分にないもの」というのは魅力的なのだ。
そんな風に自分ではそこそこ理解力があると勝手に思い込んでいたりすると、その内側の人間の挙動、リアクションをどうしても自分の型にはめてしまいたがる。これは正直かなり危険で、自己中心的な愚か者となりうる視点ではあるのだけど、反面それを利用して自分なりのストーリーテリングをしてクラスメートや友達を「脳内で動かして」みたりする娯楽を楽しむのに便利だったりもする。こちらがこう言ったらどう言い返してくるのか、そしてそれに対してこう応えたらどうするなどのリアクションを書き出したりして、実際に実行してみてその誤差を楽しんだりするのだ。つか上手くはまるとそれこそ神にでもなったような高飛車感が味わえたりしてそれもまた危険なのだけど、重要なのはそこじゃない。
これを妄想に使ったりする
人はどうしても見たい夢があると夜寝る前に強く念じたりするものだが、うつらうつらしつつも意識が多少残ってる時なんかは、「自分の脳内でシナリオを書いて、それを『夢スクリーン』に投影出来るようイメージしつつ」寝たりする。つかよく(頻繁に)する。夢の途中でふと醒めてしまったときに、あわててリプレイしつつ
※夢って醒めるとすぐ忘れちゃうから必死にいろんなパーツ、登場人物だとか背景だとか時間とか季節とか物とか言葉とかのパーツを再構築する。
その続きが見られる様にイメージを膨らませていく。
まぁ成功することはそれほど多くはないのだけど、たまにでも「バシッ」とイメージが具現化したりした日にはホントにたまらない。っていうかそのイメージが現実的だろうと非現実的だろうと、夢の中の夢ってのはやっぱり楽しいし、現実の理想や夢、幸せとは別次元で結実してたりする。
それが意外とエロじゃなかったりする
妄想と言うと大概はエロ絡みなのが健全な中2病の男子であるが、実際本当に自分が幸せを感じることが出来る夢、妄想というのはエロとは微妙に(微妙にかよっ)違っていたりする。何が「最高」なのかを振り返ってみたとき、意外とそれが一対一じゃなかったり、ただ淡々としゃべっているだけだったりする。
先日プールに来ていた男子小学生3人+女子小学生3人の話なんかは、そのエッジと言ってもいい。「あんなに幸せなことって一生に一度あるかないかかも知れないっ!」とその子達を見て思ったし、今思い出しても身震いするほど羨ましい。みんなも考えてみてよ、小学生や中学生の頃、友達と非日常的な空間、例えば、、、
長時間行動が拘束される新幹線にたまたま親と現地で待ち合わせる形で乗ったら、そのすぐ右側の席にも同じような状況で好きな女の子だけで乗ってた。でもってたまたま降りる駅も同じで、ホームに降りた後もしばらく親や親戚が来るまで一緒にしゃべって時間をつぶしたり一緒に昼飯でも食べたりして分かれた。
泣くね。間違いなく。
仲の良いクラスメート7人(内訳はカップル一組フリー5人♂♂♂♀♀)と一緒にキャンプに行く計画が持ち上がって、かなり気合い入れてやろうという話で夏休みに入る前からメンツの家で「しおり」まで作って材料の買い出しとか持って行く曲とか、川があるなら水着も持ってっちゃう?なんて話で盛り上がりまくる。つか、
この時点でもう絶頂。
「幸せ死」するのに十分な材料が調ってるわけだけど、なんとどたんばでもうひとり自分が一番好きだった子も「やっと親の許可が下りた~(^^」とか言って参加が決定したりした日にゃ、、、
二度死ぬね。間違いなく。
つかラブコメとかでも、結局のところ作者の妄想がどれだけ強力で、かつ詳細であるのかってことだと思うんだよね。あだち充のマンガが大好きなのは要はあだち充と僕の妄想に関するパトスがかなり近いからだというか、そもそも日本中の中2病患者から支持されているからこそあそこまでステロタイプのストーリーを続けていけるのだとも思う。ただ重要なのは、
それが自分の身近にいる(もしくはいた)友達に置き換えることが出来るかどうか
によってその爆発力は桁外れに変わる点。いくら南ちゃんが長澤まさみで彼女が最高にかわいかったとしても、彼女の言葉は自分の中にはないんだよ!<ここ重要よ!自分の想像と妄想がいくら強力であっても、ソースとして明確なプリントが為されていない言葉は所詮偽りの域を出ない。テレビのこちらと向こうにはやっぱり越えられない壁があると思うのだ。
※だから逆に「このDVDに出てる娘、オレエッチしたことあるんスよ」なんて話はメチャクチャ萌えると思うんだよね。
妄想にはそこに渡す架け橋が不可欠
遙か昔の記憶でもいいし、卒業アルバムでも、別の友達から聞いた風の噂でもいいから、ちょっとしたエッセンスがそのイメージを急激に強力に強化する。
余談だけど、昔書いた「長男の自慢話」なんかも「幸せ指数」が高かったなぁって今思うと感じるね。あの感覚はそうそう得られるもんじゃないもの。って何最後綺麗にまとめようとしてんだこのクズは!
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