感謝されたいワケじゃない
人に何かしてあげるとき常に見返りを求めているわけではない。わけではないつもりだったが、それはどうやら違うらしいことに最近気付いた。
例えばCD一枚焼くにしてもコンピュータに関する質問に答えるのでも、幾ばくかの労力やわずかながらのキャッシュを費やして相手のリクエストに応える場合、その見返りを「ありがとう」という気持ちや言葉で返して欲しいワケじゃなかったので、「見返りを求めていない」と思っていたのだが、どうも僕はそこに「熱量」を求めていることがこのほど明らかになった。
「熱量」
要するにこちらの仕事に対して払って欲しいのは言葉やましてや現金ではなく、気持ち、それも前向きで前のめりなスタンスだということに気付いた。要するに、
こっちを機械かなんかだとでも思っているのか?
と言いたくなるような醒めたリアクションはいくら積まれたってまっぴらなのである。クソに埋もれて死んじまえ!なのである。ゲロの海で溺れるがいいわ!なのである。かさぶたが治りきる前に剥がしてやるぞコンチキショーなのである。高熱が出たからと座薬を入れたらその刺激で思わず逆流してしまえ!なのである。つかそれはホントに最悪だ。
僕が欲しいのは「ありがとう」じゃなく「○○が良かった!」とか「○○はちょっと自分には合わない」とか「○○の他の作品もスゲェ観たい!」という前のめりなリアクションだ。自分の楽しさや喜びのために相手に何かをしてあげるというのは、ちっとも慈善ではないのだが、ぶっちゃけそれは当たり前の話なのだ。自分が楽しいからやってるのと、純粋に相手のためにしてあげているのは、結果としてほとんど同じことでも、その内側は全く異なる。
例えばアニメのビデオ一本にしても、「貸して~!」と言ってきて貸した後ちっとも観ないようなヤツははっきり言って最低だ。だったら最初から貸してくれなんて言うなバカ。でも逆に「すぐ観た!メチャ良かった!」となれば、「うんじゃぁそれあげるよ。もし観るなら他にも持ってこようか?」ということにだってなる。
結局のトコロ僕はいろんな人に影響を与えたいし、受けたいのだと思う。そいつの中に少しでも「こういうヤツがいた」という存在を刻みつけたい。要は影が薄いヤツになりたくないのだ。デジタル的に言うなら0ではなく1でありたい。ギブ&テイクというのは、なにも金を払って品物を貰うだけの関係じゃない。双方が影響し合い、高め合う関係だって十分ギブ&テイクなはずだ。そしてそれは多くの場合キャッシュでは代えられなかったりするのだ。
最近パートさんに昔録った映画とかを無理矢理?貸し付けたりしているが、マメに観てくれるとやっぱり嬉しい。1本なら2時間だけど10本なら20時間、ある意味僕のせいで人生を削られてしまうというのは、正直迷惑な面もあると思う。でも一方で「バックトゥザフューチャーはホントに面白かった!」とか言われると思わずガッツポーズ(心の中で)なのである。
「自分の価値観を広めること」ってのはあんまし言葉にして取りざたされてきてはいないけど、実際は非常に甘美な魅力に満ちている。中学生の頃から親戚が買うファミコンソフトを選んできたり、高校の頃オススメの曲なんかない?と訊かれたり、取引先のバイヤーに今年「来る」キャラクターについてアドバイスを求められたりする。
自分は世間一般からすれば少々?変わり者だと思うが、その嗜好基準は極力平衡感覚を失わない、言ってみればミーハーでライトな感性の持ち主でありつづけたいと今でも思っている。でないと言葉の重みがどんどん失われていって、結局誰にも相手にされてないということになってしまいかねない。そんなの耐えられない。っていうか多くの人が(こうしたブログなどを書き始めるまではなかなか表だって出てきたりはしない感覚だとも思うけど)心の底にはそう言う潜在意識があると思う。
つか、
こういうのの果てに宗教とかあるのかもなぁとか思ったりもする。どの程度が「商業」としてのもので、どの程度が「本当の意味の宗教」なのかはわからないけど、感謝の言葉ではなく、価値観の共有としての繋がりということになると、あながち当たらずとも遠からずだと思ったりするんじゃないかしら?
まぁ実際このブログでもいろんなことを褒め、いろんなことをけなしてきたわけだけど、自分が好きな物が褒められてる時ってのはたぶん凄くうれしいんだろうなって思う。ましてや長い間読んできて下さってる常連さんなんかで、多かれ少なかれ既に価値の共有が出来ている人なんかは余計「だよねぇ!」と思える事象に前のめりになるはずだ。そう、僕はその「前のめり」が大好きなのだよ。
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