価値観の教育
まぁ教育というのはちと言い過ぎな気もするのだが、子供達と「何が素晴らしいか」「楽しいか」をシンクロさせるというのは、実は結構重要なことだと思う。ほっといてもある程度は、例えば食卓に並ぶものから家族旅行の先、見ているドラマやスポーツ、耳にする音楽など、影響を多大に受けるものではあるが、その時々で軽く念を押すというか、「これは美味しいね!」と同意を求め、「うん美味しい」と言わせるところまで持って行ったりしていいんじゃないかと思う。
美味しいものに美味しいと口に出して言うというのは、実は案外出来るようで出来ない。知り合いを見渡しても、とんでもなく値の張る大トロや霜降りじゃなく、ちょっとしたお菓子一つにも「美味しい」と言える価値観を持つ人はあまりいない気がする。特に安ければ安いほを「恥ずかしい」と思うんだろうか。やっぱり吉野家の豚丼でも「うまい!」と言って食える方が幸せだし、「美味しかった人~?」って聞いて手を挙げられるような生き方をしたい、させたいと思う。まぁマズかったらもちろんその限りではないのだけど。
さて、そんな価値観の共有を感じた話をちょっぴりご紹介する。あまりに些細なこと過ぎて「だから?」と感じられる方も多いと思うけど、自分的にはちょっとニヤリと来た話なので書くことにする。
テレビを見ていて、相川七瀬のパチンコのCMが流れた、長男はメールだかブログを書いていて、僕もノートをいじっていて、娘はPSPでネット小説を読んでいる状態でCMが流れた。
当然みんな自分のことをやっているわけで、耳からの情報など些細極まりないレベルだったはずなのだが、CMが終わった直後3人同時に、
「今の曲いいね!」
と言った。相川七瀬のパチンコのCMを知ってる人ならわかると思うけど、ぶっちゃけ彼女のヒット曲のメドレーがバックに流れていて、1つ辺りの時間は非常に短い。その短いわずかなフレーズに3人同時に反応というのがなんだか凄く愉快だった。長男とはかなり音楽の好みがシンクロしているが、娘もまた(プロジェクトディーバなどを通じて)共有出来るところに来ていたのか、そう感じた。
その後すぐさま僕は自分のライブラリから相川七瀬の曲を片っ端から聴いてみて、「どれも違う」。ならばと検索し、長男にも手伝って貰ってその曲名が「BACK TO THE DAY」であることを突き止め、ほぼ同時にノートとメインPCからその曲を探し当て流れ始める。どちらもyoutubeから見つけた。
残念だったのはその曲がサビだけが目立って良い最近の「商品」で過去の彼女の曲と比べて(1曲全体としてみると)ランクが落ちるということだったが、割とありそうでない体験をしたと思う。ニヤリ(^^。
続いては運動会の写真の話。
プリプリというネットの印刷サービスに頼んだ写真が届いた。娘の友達を中心に写ってる子の数だけ頼んで100枚弱。いくつか大きくプリントした物を含めて1200円ほどだったが、まぁ時間が掛かることを除けばかなり頼みやすく値頃感もあると思う。
※ちなみに頼んだのは写真の縦横比が3:4というサイズ。たぶんL版より小さいと思うんだけど、L版だと天地が少し欠けるので、デジカメサイズのコレで頼んだ。余談だけど、カメラってテレビの線上でワイド型が出てもおかしくないと思うんだけど、意外なほどないね。モニターで写真を見る人口ってのが少ないとは思えないんだけど、、、こういうのもいろんな大人の都合があるんだろうな。
写真別に仕分ける子供達に、
※長男のも以前撮ったのをいくつかプリントしてもらった。
「こういう写真がいい写真だろ!?」
と言う。友達と3人で肩を組み満面の笑顔の写真。深夜の駅のベンチでポーズを取る写真。7人がムカデになってこちらを見る写真・・・。長男が言う、
「当然だ」
僕もそう思う。そして僕がそれが当然なのだと長男に教えたんだよな、とも思う。ともすればよその子の親父が自分の小学校4年になる娘の写真を撮るというシチュエーションに怪訝な顔を浮かべるかも知れないが、しょうがない僕が撮りたい写真は、子供が時を経て、例えばそれが1週間でもいいし10年でもいいけど、写真を見たときに、「友達と仲良く笑っていた」事実なんだもの。でもってわざわざみんなの分までプリントしたのは、その友達の両親、特に親父さんに、
「こんないい顔の子供の写真はないでしょ?」
と自慢したいんだもの。走ったり飛んだりの運動会の演技のシーンをHDハンディカムで撮りまくるママさん。三脚と望遠で高台から娘の一瞬を切り取ろうとするパパさん。もちろん僕だってそれと同じベクトルで単なる自己満足なのかも知れない。でも長男に言う、
「これだったらおまえの運動会も行けばよかったかなぁ」
中二の運動会。あまり目立って写真を撮りまくってたら怪しまれたりするかも?でもやっぱ長男もわかっているのだ。「こういう写真」がいい写真で、そしてそれは楽しく想い出になるということが。
「次は3年だし来年撮ればいいよ」
だな。ヤツはわかっている。
ちなみに僕が理想としてる写真というか、目指してる写真というのがあって、ある意味その写真があったから僕は今こうして「いい写真」を求めるようになった。それは、
※かなり前にブログでも書いた気はするけど、、、
高校の修学旅行の時、ホテルの近くの浜辺で撮られたモノクロの「俵」の写真。「俵」とは男子が組体操でよくやる人間ピラミッドのことで、写ってるメンバーは言ってみれば学年の中でもモテ夫というか、人気者ばかり。4,3,2,1の4段10人の俵だったと思うけど、全員が笑顔でこちらを向き、夜の砂浜でヤローどもの想い出が刻まれていた。
僕はその時全然そんなイベントが起こってるのも知らずにいた(たぶんクラスメートとどうやって女子風呂を覗くか話してたと思う)んだけど、後日職員室で引き延ばされたその写真を見たとき、スゲェショックだったんだよね。
「これなんだ!」
と。よくお寺や遺跡やらをバックに笑顔で記念写真を撮ったりするんだけど、大抵は後から見直してもハートに来ることはない。風景だけの写真もまずそんな感じで、どんな高名な写真家が撮ったものでもピンと来ることはごくごく稀な話だ。つか、僕はそのモノクロのA4写真に「感動した」んだよね。羨ましくて楽しそうで幸せそうで、、、きっと何年経ってもこの1枚の色のない写真は輝き続けるんだろうって思った。どこで撮ったのか写真だけじゃ全くわからないのに。でもって、
僕もこういう写真が撮りたい
と思った。
結果、高校の卒業アルバムには「アルバム委員」だった僕のそんな想いがダイレクトにぶつけられた凄まじいものになったんだけど、まぁあんましネットで流すもんじゃないよな。でも、この価値観は子供達に受け継ぎたい。僕が娘と娘の友達に「写真を撮らせて~」と言っても半分以上の子は逃げる。でも今回僕が撮った写真を見て欲しい。友達の笑顔と、きっと今までにそうはたくさんないであろう、「演出が入った運動会」の写真を見て欲しい。
楽しそうじゃないかい?
その中に「自分も入っていたかった」って思わない?まだ大丈夫チャンスはあるよって言いたい。
39歳の僕が中二の頃に撮ったクリスマス会の写真がどうしても欲しいんだけど、見つからない。いっぱいあれば、よりたくさんの友達と撮っていれば、きっと目に出来る可能性は広がったんじゃないかと思う。
娘の卒業式に、長男の時↓
http://cris-deepsquare.cocolog-nifty.com/top/2008/03/post_0546.html
以上にいい写真が撮れますように!
最後はおまけ程度の話。
こないだ夜急にお菓子が食べたくなっていたところに、長男が「コンビニでも行こっかな」というので、じゃあオレ様がおごってやるよ、と子供二人連れて最寄りのサンクスへ行き、30円から50円くらいの駄菓子というほど駄菓子じゃないけど小さめのお菓子を大量に大人買いした。子供たちもあまり経験のないその行動にテンション↑↑。
レジで「いくらになるかクイズ~!」。ひとしきり盛り上がる。家に帰って3個あるヤツを均等に分け、割り切れない物をじゃんけんで勝った順に取っていく。これは我が家では果物の時かなりの頻度で行われる言わば儀式のようなもの。まぁちょっとした瞬間にもドラマを求めたい僕の切ない乙女心ってヤツだ。
滞りなく分けた後、僕がおもむろにチロルチョコの「クリームあんみつ」を食い感想を「うーむクリームあんみつとしか言いようがない」と言った。二人は失笑後、娘は「ボクそれたぶん食べないな」と言ったが、長男には「今人がいるところで食った方が面白いぞ」と言うと「だよね」と包みを開いた。
「うわ~きついわ~コレは!」
笑顔である。重要なのはそこなのだ娘よ。この笑顔の共有が明日の友達との笑顔を作るのだ。空気を読むというのはそういうことなのかも?と思ったり思わなかったりだぜ。
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