コンプティーク1986年11月号
1/60ガンダムを使った最高に最高なジオラマのグランプリ作品が載っているプラモムックを探しに本棚を漁っていたら、お目当てのその本は見つからず、代わりに出土したのがこちら。1986年と言えば今から24年ほども前。「24年!?」ってくらい前。僕が高校生の頃なんだからホントに前だが、一冊だけこのコンプティークが取ってあったのには当然わけがある。
イシター特集だったから。
編集部がイシターの筐体ごと購入し、それに伴うルームのつながりやらモンスターの詳細やらが載っていた号。当時まだ家庭用はおろかパソコンにも移植されていなかったが、来るべき日の為にキープしていたように思う。まぁその「来るべき日」というのはSPSによるPC88版の移植でことのほか早く訪れることとなったのではあるが。
だがそんなコンプティークでも24年も漬け込めばかなりイイ味が出ている。実年齢がこの本よりも若い読者様には全くピンと来ないだろうが、のらりくらりと懐古ネタで参りたいと思う。つか当時を知っていたハズの僕でさえ、
もはや懐かしいというより知らない・・・
ってネタも多かったのではあるが。
「誰だこれ・・・」。誰しもがそう思うことでしょう。僕もそうでした。当時から何百回と開いているコンプティークですが、この表紙の女の子はそのたびに忘れ去っています。三人組の女の子と言えば「リボンか!?」と思いがちですが、正解は「少女隊」。少女隊?誰だよそれ?今も当時も「少女隊」に誰がいたのか思い出せません。諸行無常です。
MSXをプッシュしていたカシオのロムゲーム妖怪屋敷。当時のソフトはとにかくいかにCMで「ハッタリをかますか」が重要で、ゲーム中にたとえ1種類しか登場しなかったとしても、その「大型ボス」を誌面に登場させたりしておりました。
※妖怪屋敷がそうだってわけじゃないけど。
それから、グラディウス以降、各面の個性付けというか、メリハリもポイントで、イーアルカンフーがイーガー皇帝の逆襲になったり、けっきょく南極大冒険が夢大陸アドベンチャーになったりしたときも、この妖怪屋敷のように「全く違う雰囲気の面がありますよ」というアピールを欠かさずしてましたね。
※まぁとは言っても1986年と言えばもうファミコン最盛期ですからね。所詮MSX、という感じは否めないと言えば否めませんでしたな。
→MSX2になればまたそれはそれで話は変わるんだけど。
「パソコンゲーム雑誌」がこうして商売になっているというのは、とどのつまり「PC8801MKIISR」がファミコンとは別次元の地平を切り開いたからに他ならない。ゲーマーにとって、「それでしか出来ないゲーム」があるハード、ましてやそれが非常に面白く、例えばその時代、黒船のようにやってきた「RPG」を苦もなく可動させる、ある意味夢のマシンである「パソコン」は、PCエンジンやメガドライブ以上に魅力的だった。
そんな魅力的なパソコンだが、シェアは大きくNECに偏っており、シャープのX1と富士通のFM7陣営は、どちらもそれなりのアプローチはしたものの、なかなかその牙城は崩せなかったのだ。
※シャープはX68000をもってかなり独自の地平を切り開いたが。
まぁそんな富士通のパソコンは当時とにかく「見た目や音」をアピールする「AV指向」を謳っていた。88は今思えばDSのようなもので、PSPにスペックで劣る面があろうとなかろうと、とにかくシェアを取っていた
※僕は知らないけどたぶん水面下ではいろんな契約やらテコ入れやらつながりの太さなんかがあったんじゃないかと思う。でなければいくら(88SRが)発売当時最先端であっても、ここまで偏った市場にはならなかったと思う。
がゆえにソフトも充実していたし、マルチプラットフォームタイトルであってもまず最初にリリースされた。88なんて「256色中8色しか同時発色出来ない」タイトル「ならばまだいい方」で、ほとんどが、
8色中8色しか画面に出してなかった
んだよな。
※詳しいことはわからないけど、もうメーカーの技術的な問題でこうなっていたとしか思えない。まぁドットの大きさがファミコンと比べて細(こま)かかった(というか細(ほそ)かった)ので、二色のドットを並べて「中間色」に見せる表現方法でも、かなり精緻な結果を演出することが出来てたんだけどね。
ちなみにこのFM77AV。本体価格は128000円、TV機能付きモニター89800円と今のパソコンとさして遜色ない価格に落ち着いているけど、スペック表を細かく見ると、
・マウスが33000円
・300bps(推定)のモデムが54800円
・メインメモリが128KB
となかなか壮観。「枯れてない技術」を用いるとこういうことになるんだなぁって感じ。つかメモリ128キロって、、、
まぁファミコンは4キロでしたからね。
当時は十分過ぎるスペックだったわけです。
※今調べたらPCエンジンは72KB、メガドライブは136KB(全てメインとVRAMの合計)積んでた模様。まぁこの当時は1年で全くメモリ周りの値段が変わってきていた頃だったからね。今以上に。
ちなみにiPhone4のメモリは512MB。上記FM77AVの4000倍です。
→単純にあと25年くらいしたらその4000倍2テラバイトメモリ搭載で本体の大きさがSDカードくらいの「コンピュータ」が出てくる可能性も十分ありそうですな。
タイトルを見て中身がパッと浮かぶ人はどのくらいいるのかなぁと思ったりもしますが、ぶっちゃけ僕でも完全に思い出せない「クリスタルプリズン」がむしろ逆に興味深かったりもします。
時代的には「パソコン旋風」と言って良いザナドゥやハイドライドが一段落して、その後続のRPGブーム黎明期というところでしょうか。YSやラストハルマゲドンはまだ出てきて無くて、どちらかと言えば「難度の高いタイトル」が席巻してた感じですかね。
アイドル関係はホントにわかりません。名前と顔が繋がるのは富田靖子、杉浦幸、河合その子くらいですかね。あと西村知美か。つかそう考えると西村知美の「変わらなさ」ってスゲェなぁとも思いますね。
右ページに小さく書かれた「リンクス」はあのリンクスではなく、MSXを使ったパソコン通信のことです。ボカァ今の今までこんなのが存在してたなんて知りませんでしたよ(^^;。
ところどころに僕のメモ書きがされてますけど、まぁそのくらい使い込んだということで。ちなみにこの相関図は当時ゲーメストに載っていたものを丸パクリしたみたいな疑惑というか、噂というか、事実なのかも知れませんがありましたね。僕はそっちを見てないので何とも言えないんですが、とりあえず買いそびれた身としては、(こうして改めて見る機会を得たことは)福音以外の何物でもありませんでした。つかイシターに限らず、こうした攻略データがあった方がより楽しめるゲームってのはいっぱいあるよね。
初代がまだ発売されてない頃のニュース扱いの紹介というのがちょっと歴史を感じさせるかなぁと思ったので、自分的にはさほど興味のあるタイトルじゃなくても紹介してみました。画面写真を見て、「当時からあまり変わってないなぁ」と思うのか、それとも「随分変わっちゃったんだなぁ」と思うのか。
まだシムシティとかポピュラスみたいなゴッドゲームも出てない頃に、こうした開発系のシミュレーションを作るってのは、冷静に考えても凄いですよね。アートディンクは今でも革新的なタイトルを精力的に開発してるところですが、それが当時からずっと続いてる、でもってそれで食いつないでいけてるってのはホントに凄いと思います。つかゲームの紹介記事なのに、
ハードもメーカーも価格も発売時期も一切が書かれてない
※前後のページにもない。
ってのは、、、ある意味さすがコンプティークって感じです(^^;。
これが全マップなんですが、パッと見てタイトルがわかった人はなかなかの通ですね。当時は画面写真をカメラで撮って、それを切り貼りしてマップにするという記事が(ファミ通でも)普通に行われていたんです。
※だからつなぎ目の色がおかしかったりするわけです。
よくよく見るとマップの写真はほとんどが5×5マス単位。わずかに見えるフィールド(まるでドラクエのレミーラみたい)が逆に狭い世界を広く感じさせることに一役買っていたというところでしょう。
マークIIIにも移植されたこのタイトルは「覇邪の封印」。工画堂会心の作品でしたが、今プレイするとその遊びにくさと難度の高さに驚愕必至だったりもするんですよね。
これもハードが明記されてないので、どのソフトがどのハードでリリースされていたのかが明確にわかりかねる微妙なランキング、、、というか、当時のコンプティークはメーカーとの癒着みたいなものがほとんど無くて、記事内での紹介をソフトの販売に直結させるという考え方が思いも付かなかったのかも知れません。
余談ですが10位の「スーパーマリオ2」ってのはあのスーパーマリオ2なんですよね?左下の囲いの中にファミコンは書かれてないんですが、これってファミコン以外のハードでもリリースされてましたっけ?つかまぁ「スーパーマリオ2」というタイトル表記自体結構曖昧というか、あまり細かいことを気にするのは「粋じゃない」という時代だったのかも知れません。
これも僕自身全く覚えてなかったタイトルなのですが、ハードがPC6001なんですよね。88より一段表現力が劣る前世代のPC。でも言い換えればそのPCでの開発はかなりこなれていた頃とも言え、僕自身は触れなかったですが、ユーザーにしてみればこのシンプルな画面写真がきっと輝いて見えたんだろうなぁとも思います。まぁ今の子に今日のゲームの写真や話が通じないのは無理ないよなって、そう言いたいわけですよ(^^。
最後はコンプティークの代名詞とも言える袋とじをちょっとだけ紹介しておしまいにします。ぶっちゃけ「チャンピオンソフト」とか知らないというか、スッキリ忘れ去っているわけですが、当時はこの袋とじが楽しみで仕方なかったというのも、素直かつ正直に告白しておきたいと思います。つか個人的にはゲームソフトよりマンガの紹介(森山塔とか上総志摩とか)の方が大きかったんだけどさ。
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他にもお見せしたら面白かろうなぁという記事はいくつもあるんですが、スキャンするのが面倒なのでこの辺で。一時期はヤフオクでも結構昔のゲーム雑誌とか出品されていましたが、最近はあまり見かけなくなりましたね。ファミコンとか一部のアーケードゲームなどは、それを主軸にしたムックが発売されたりもしましたが、パソコンゲームに関してはそれを支えた多くのメーカーが消え去ってしまっていて、本を出す行為そのものを支えるところが無いのかも知れません。
※「伝説の8801」みたいな雑誌はあっても、結局光が当たってるのは一部のタイトルだけで、カタログ的な意味合いは薄いんですよね。
まぁごく一部の読者様にわずかばかりでも懐かしく感じてもらえれば幸いというネタでした(^^。つかテンションが上がりきらず(スキャンとトリミングが面倒で)、実は3日くらい掛かってたりするんですけどね~。
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コメント
懐かしいな。この号持ってました。
古い雑誌は、引越しの時に泣く泣く処分したので手元にはもうないですけど。
自分は巻末に連載していた「ヴァグランツ」(だったっけ?)を目当てに買っていました。
その後ゲーム雑誌はBeepに移行しました。
>シェアは大きくNECに偏っており
なにぶん、昔の事なので記憶があいまいですが…、
たしかソフトメーカーだったり、周辺機器メーカーへのサポートを、一番ていねいにやっていたのがNECだったからではなかったかと、記憶しています。(ソフトが出る→それを目当てにパソコンを買う人が出る→ユーザー数が多いので新たなソフトが出る のよい循環になった)。
あとは…
富士通のパソコンは長らくキー入力に問題をかかえていて(たしかキーの入力に、何かクセがあったはず…アクション的な物はジョイスティックが無いとつらいみたいな)ゲームに向いていなかったのがホビーパソコンとしてはかなりハンデとなっていた記憶があります。
あとツインCPUだったり、6809っていうのはやっぱり使いこなしが難しかったのでしょうか。
シャープは2つの事業部(Xシリーズのテレビ事業部とMZシリーズのコンピュータ事業部)で機種を出しすぎでしたね。8~16ビットの時代にいったい何種類出したんだっていう感じでしたから。
もし会社の力を分散させずに事業展開していたら、X68000みたいなすごいの作れるのだから、また違った展開があったかも。
>パッと見てタイトルがわかった人はなかなかの通ですね
すぐわかりましたよ。(コメントで書こうと思ったら数行あとに答えが書いてあったので「あらっ(笑)」ってなりましたが。)
MKⅢ版でプレイしましたが、ゲーム内容よりも、セーブーデーターが消えやすかったのがつらかった思い出があります。
>これってファミコン以外のハードでもリリースされてましたっけ?
スーパーマリオならパソコン版ありましたけど…
(マリオブラザーズではなく、間違いなくスーパーマリオの方。画面がスクロールせず切り替え式というすごい無理のある移植版らしいです。発売はハドソン。)
2は…あったんですかね。ちょっと見てみたい気がします。
投稿: nao | 2010年9月 2日 (木) 14時08分
まいどですnaoさん、クリスです。当時88持ってる友人は結構な数いましたが、割と買ってるパソコン雑誌には派閥があって、一番大きいのが「ログイン派閥」。あとは「コンプティーク」「ベーマガ」「テクノポリス」がちょろちょろいて、「ポプコム」は少数派って感じでした。Beepになるとまた違った感じになりましたね。コンプティークはとにもかくにも「ゼビウス無敵技」を載せたことが最大のポイントというか、ある意味すっぱ抜きみたいなもんだったと思うのですが、他誌にはない魅力がありましたね。ログインとかは捨ててましたが、コンプティークとテクノポリスは割と取っておいてた気がします。
NECのサポートがいいという話は知りませんでした。っていうかその頃は「サポート」っていう言葉自体あまり認識してなかったかも(^^:。
ちなみに自分はDOSVになってから富士通のPCを買いましたが、マウスのスクロール部分がノートPCのセンターにあるトラックポイントみたいになっていて、
凄く使いやすかった
のを覚えています。わざわざかなり高価にも関わらず、取り寄せて何代か使っていたくらいです。だからキー入力のクセうんぬんの話はむしろ「へ~」って感じ。ただNECのキーボードが普通に好きだったのは覚えているので、ショップで触ったときには違和感を覚えていたのかも知れませんね。
X68Kのロンチの凄さはホント筆舌に尽くしがたかったですよね。でも当然高校生あたりでそうそう何台もPC買ってもらえるようなヤツはいなかったので、「まず88」って感じが強く、僕の友人でユーザーは(いまだに)ゼロです。エミュで触って「当時持ってたら」って思ったことはありましたが、アーケードは移植ではありますが、家庭用ハードで遊べたってのが大きいかも。88のパソコンゲームは家庭用ハードでは遊べませんでしたからね。
※ごく一部移植されたりはしましたが。
>すぐわかりましたよ。
コンプティークを買っていた方ならわかるのも納得です(^^。セーブデータが消えやすいってのは知りませんでしたが、マークIII版は、クリアした後友達がFMサウンドユニットを持ってきて聴かせてくれたときのショックの方がはるかに印象として大きいです。
正直PCの時もそれほど音楽がいいゲーム、メーカーという印象はありませんでしたが、その音の厚みには驚かずにはいられないというか、、、でもやっぱり曲の方が重要だと思ったのか、僕も買う、ってことにはならなかったんですけどね。
スーマリ、画面切り替えでしたっけ?覚えがないなぁ(^^;。でもハドソンならそれなりにがんばって移植したはずだと思うんですよねぇ。「移植のハドソン」「技術のハドソン」ってのが僕の中での印象だったので。っていうかハドソンでそれだったとしたら、他のメーカーではもっと酷い移植になったんじゃないかってくらい僕はハドソンを評価してたりするんですよ。あくまで「移植と技術」に関してですが(^^;
投稿: クリス | 2010年9月 5日 (日) 22時58分
~キー入力のクセ 補足
記憶を元に書いたはものの、「X1シリーズの方だっけ?いや、たしかFMシリーズの方だった…」と自信がなくなってきたので、ちょっと調べてみたらやっぱりFMシリーズでした。(FM8~FM7において。FM77以降は解消された。)
キータッチ云々ではなく、ゲームにおいて致命的といってもいい欠点で、専門用語で言うと「リアルタイムキースキャンができない」という事だそうです。最後に押されたキーを放したという事をプログラムが判断できない。つまり、アクションゲームなどで右のキーを押したら他のキーを押すまで、キャラクターが右に進み続けるという現象が起きるのです。
あと、処理速度を向上するために採用したツインCPU構成が、ゲームにおいてはやはり問題になっていたようです。ただ、こちらの方はウラワザ的な方法でなんとかなっていたようです。(→YAMAUCHIコマンド)
そういえば、開発者のインタビュー記事をどこかで読んだ(FMシリーズが登場してから5年後くらいに当時を振り返ってというものだったと思う。たしか切り抜きも残していたはず…はて、どこにあるだろう…。)記憶があるのですが、開発した当時はまさかパソコンを(アクション的な)ゲームを動かすのに使われるとは想定していなかった、と確か語っておられたように思います。
とはいえ、他のメーカーもおそらくは似たり寄ったりではあったと思うのです。
その後のパソコンの進化を考えると感慨深いですね。
投稿: nao | 2010年9月 6日 (月) 07時06分
ちすnaoさん、補足どもです。僕もちと興味がわいたのでFM7のウィキペを覗いてみました。なるほどなるほど。当然のことなのですが、他の(88以外の)PCにも歴史アリという感じですね。今でこそ、NEC、SONY、富士通、パナソニック(あと東芝もかな)あたりのメーカーPCは横一列な(SONYが頭一つ抜けてる?富士通?)印象ですが、1980年代のシェア獲得、技術革新やハードごとのコンセプトなどは、今よりずっと混沌としていて、それだからこそ面白いみたいなところもあった感じです。自分は88に大満足でしたが、一方で77AVの4096色はやっぱりうらやましかったし、雑誌で見るしかなかったX68Kやタウンズも「歴史の一ページ」という感じでした。
しかし押したキーが放されたと認識しないというのは、言われてみればちょっとなるほどと思う側面もありますね。時代も背景も違いますが、アーケードのストIIで、連続技、たとえばアッパー昇竜を入れる際、「押してアッパー放して昇竜」の「1ボタンアッパー昇竜」の理論が出てきたときがありました。それまでは「ボタンは1回押して1回反応」だと思っていたのが、実は「押したときと放したときそれぞれに信号が発生していた」という。まぁパソコンのキーボードと全く同じ理屈とは言いませんが、そういうひとつひとつの「当たり前じゃなかったこと」が潰されながら今につながっているんだなぁって感じですね。
ただ、「FMシリーズが登場した頃」と言えば、推定1981年前後(FM7が1982年なのでその前かなと)。すがやみつるが「こんにちはマイコン」を書いたのが1982年で、PC6001は既に世に出ていて、友達の家でフロントライン(ドット絵はテレビベーダーに毛が生えた程度)を遊んだ記憶がおぼろげにあります。コンピュータの開発者として、アクション要素のあるゲームを想定できないってのは、ちと認識不足な気もするなぁって感じですね。まぁ一朝一夕にできあがるものじゃないから、開発段階ではなかなか難しかったのかなぁ(社風とか上司の認識とかもありますし)という気もしますけどね。
古いPCの話をしてるとちょっと実機を触りたくなりますね(^^。今も実家の二階にほこりにまみれてあるはずなのですが、動かそうとして動かないことが明るみになるよりは、あえて「いつでも動かせる」と思っていた方が幸せかなぁって気もしますね(^^。
投稿: クリス | 2010年9月 6日 (月) 21時34分
2015年になって読んでます。
FM-7は82年暮れに発売され83年こそ圧倒的なコストパフォーマンスでセールストップでしたが、キーの欠点と88のキラーソフトのドアドアやアルフォスによりあっさり逆転されました。
FMが8の頃から続く重いI/OをサブCPUに任せるシステムはいかにもコンピュータ屋さんの発想で、その立ち位置からみれば極めて合理的でした。
しかし8ビットパソコンは結果的にゲーム用途に終始したため、キーの状態が読めない欠点は致命的でした。
AVでは直りましたが時すでに遅し。FM-7のときにキースキャンを直すか、PSGあるんだから最初からATARI端子つけるかしていたら違う未来があったと思います。それほど最初の一年は売れていました。
2CPUのハンドシェイクという開発のしにくさもありましたが。
スーマリ2はわかりませんね。しかもメーカーが任天堂になってるし。スーパーマリオブラザーズスペシャルという2じゃなく初代の画面切り替え式の移植ならハドソンから出ていました。
投稿: | 2015年3月28日 (土) 13時23分
初めまして名無しさん、クリスですども。
せっかく長文でコメント頂きましたが、
僕よりお詳しい方なので、それに相づちを打つことすら
できなかったり(^^;
申し訳ないやら恥ずかしいやらです。
ただ、僕も完全にゲーム目的で88を買って貰った人間
なので、そこに注力しそこねてしまったことが、FM陣営の
敗因になってしまったというのは、とてもよくわかる話です。
ぶっちゃけ任天堂に対するセガみたいな位置でしたからね。
スーマリスペシャル、懐かしいですね(^^。ハドソンは当時
一二を争う大好きなメーカーでしたが、セカンドパーティとして任天堂から版権を許されても、スペックと技術が伴わず、そういう結果になってしまったんだろうなって感じです。
でもそれ考えるとイースIIIやテスタメントはホント凄いですよね。
投稿: クリス | 2015年3月29日 (日) 20時43分