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2011年6月28日 (火)

二面性の話

全て、とはいかないまでも多くの物事には二面性がある。ポップでキャッチーなプリントに「かわいい」と感じる人もいれば「安っぽい」と感じる人もいるし、感動的な物語に涙する人もいれば、白々しく距離を置いてしまう人もいる。

かの偉人ポリアンナの言う「よかった探し」もまた、物事に潜む二面性に「えいやっ」と切り込むスタンスのひとつだと思われる。

世の中に完璧な人間などはいない。たとえば物事に対し臆病で及び腰であったとしても、それは慎重さや、計画性の顕れかも知れない。スポーツ万能であっても、知識は人並み以下かも知れないし、オリンピックに出られるような人に長寿命の方はいないとも聞く。

子供の頃テレビばかり見ていた子は、外で遊んでいた子よりも、少なくとも「テレビからの情報」に関しては多くを摂取吸収していた可能性が高いし、逆に外で遊んだことで、家の中では見ることの出来ない景色や生き物とふれ合えたかも知れない。

夜更かしをして他の人より長く起きていれば、その分多くの経験が積めるかも知れないが、成長期の夜更かしによって人より身長が低かったり、ひ弱になってしまう可能性もある。登下校の時間もそう。徒歩で1時間掛けて学校へ行かなければならない(ちなみに我が子たちがそう)状況は、確かに彼らの人生の一分を大きく浸食するかも知れないが、それによって健康な足腰や、自転車通学になったとき、より強い「飛躍感」を味わえるかも知れない。

お小遣いが多ければいろんなものが買えるけど、お小遣いが少なければ友達とより仲良くなれる可能性も大きくなるかも知れない。兄妹がいると食べ物とかを取り合ったりするかも知れないけど、一人っ子なら逆に他の子と分けることに抵抗がなく、優しさがはぐくまれるかも知れない。もちろんわがままで自己中になるかも知れないし、兄妹だからこそ助け合えるかも知れない。

 重要なのは二面性のどちらを感じるのかということだ。

人によってポジティブな側面がどちらにあたるのかも違いがあるだろうが、少なくとも「どちらがより大きな幸せを伴うか」は、(ジャッジを試みれば)概ね答えが出るのではないか。そしてそれこそが「後悔のない生き方」に繋がるのではないか。

ここだけの話、こないだの震災が起きた時、僕は「1万円は寄付する」つもりでいた。だが、その直後にどろぼうに入られ、数十万円のお金を取られた。結局僕はお小遣いから3万円を補填し、震災への寄付を止めてしまった。

今でも思う。「正解はどこにあったんだろう」って。3万円は誰かに強制されたわけではない。1万円も誰かに強制されたわけではない。だが、少なくとも僕は被災者の方へ一切の寄付をしていないことが凄く後ろめたくて仕方ない。ならば今からでも遅くない寄付をすればいいじゃないかと思うかも知れないが、だったら自宅へ入れるべきじゃないかという気持ちもまた、それと同時に沸いてくるのだ。

結局僕は「自分を正当化する」ために「自分に言い聞かせるために」、「これで決着した」と思い込むことにした。被災した方からしてみたらひどいヤツに思われるかも知れないが、状況はそこに置かれた者にしか正しく把握は出来ない。かの大女優安達祐実が口にした「同情するなら金をくれ」は、心がすさんだスラングにも見えるが、実際のところ本音というのはそんなにきれい事ばかりじゃないのだ。

梅雨でじめじめしてベタベタ蒸し蒸し不快指数が高いという。でもこの季節、お肌が乾燥してひび割れたり、静電気でバチッって来たり、空気の乾燥による火災の発生などはない。雨が降れば僕の店みたいな小売り路面店は売上げがガックリ落ちるが、水不足になったら困る人がいっぱいいるのもわかる。少しでもサラサラな肌を維持できるインナーを売るとか、傘の品揃えを増やすとか、雨の中来て頂いた方にいつも以上に丁寧な接客を心がけるとか、できることはいくらでもあるし、結果より心地よいコミュニケーションが取れ、自分という人間の印象を良くすることが出来たなら、雨だって梅雨だってまんざら悪いものじゃないはず。

僕は断じて楽天的ではない。が、常にネガティブ志向ってこともない。僕は割と小学生の頃から(運動全般は無理だったけど)行事やイベントには前向きにアプローチしてきた。「根アカ」だとは思わないが、少なくとも「根暗」ではなかった。高卒で、特に高校時代の勉強はろくなもんじゃなかったけど、小学校、中学校、高校の先生や友達は僕のことを覚えていてくれている。意識はしてなかったけど、きっとどこかで「二面性のうちの良い方」を出来る限りチョイスしてきたのだと思う。

なんでもかんでもが自分の思い通りになると思ったら大間違いだが、「思い通りになることだけを思い通りにする」ことは「誰にでも」出来る。重要なのは「思い通りになることなのに思い通り≒望む通りにしないこと」が多いってことだ。迷って戸惑ってつい「不正解」をチョイスしてしまうってことだ。もっと言えば、「不正解だったとあとから後悔してしまう」ことだ。強引に正解に寄せていける可能性があるのに。

一生の間で一度だけカツアゲされたことがある。そのときの僕のチョイスはかなり長期間に渡って失策だったと後悔し、もっといろんな選択肢があったんじゃないかと何度もシミュレーションした。でも、そのとき出した2000円でそれ以降同じようなシチュエーションになったときどうしたらいいかを凄く考えるきっかけになったし、ケンカしてケガをして「それでも後悔しなかった」かどうかも甚だあやしい。擦り傷や切り傷程度ならいいが、もしかしたら失明したかも知れないし、仮に勝ったとしても仕返しでより深いキズを負うハメになったかも知れない。家に火を付けられるとか。

 やるんなら殺す覚悟でやるべきだと今は強く思っている。

殺す覚悟が出来ないなら、素直にお金を出した方がいい。もちろんこれは「殺される覚悟」でもある。会社があって家庭があって親がいてなおその選択をする覚悟があるのか。そんなもんあるわけはないのだ。

まぁ「走って逃げる」ってのが案外正解だったのかも、とも思うけどね。
※今初めて浮かんだ選択肢(^^;。

宝くじも競馬も買わなきゃ当たらない。が、買わなきゃ損することもない。当たらなかったことに悔やむこともないし、ため息もつかない。逆に馬券を買うなら、「ハズレても結果が出るまで楽しむ」のがきっと正解なんだろうって思う。生活掛けてギャンブルするのは絶対不正解だと思うし、やるんなら娯楽と割り切る「選択」が正解だろうと思う。まぁ娯楽と割り切れない僕は、「買わない」が正解なんだけどさ。

もっとも、こんなことをいけしゃあしゃあと書けるってのは、その時点で既に僕がある程度以上の幸福を享受してるってことに他ならない。だがしかし、

 たいていの人は、自分が思っているより不幸でも幸福でもない。

これはやっぱり真実だと思う。不幸から目を背け、幸福を噛みしめることで自分の「幸せ率」はいくらでも水増しできるはず。まぁ忍び寄る不幸が「起爆」してなおそんな甘っちょろいことが言えるのかって話はありますけどね。

クリス厄年。気持ちを引き締めつつ毎日を大切に生きていきたいと思う次第です。

 以下余談

昨夜、と言っても朝6時か5時頃だったかも知れないけど、寝てるときに一瞬だけ揺れた。「グラッ」っとしただけで僕は飛び起きドアの近くで次のターンに自分が出来る事を考えた。「レゴが落ちてきたら、、、ショックだけど押さえには行けない」「ドアを開けるべきか、、でも次に揺れた瞬間でもドアくらいは開けれそう(ドアノブに手を掛けていたので)」「どのくらい揺れなければ安心出来るんだったっけか・・・」・・・。

 心の中で15秒数えて、布団に戻る。
※きっと早足で数えちゃうだろうから「10秒」って思ったのを増量。

僕の寝ている頭の上にはレゴの箱がてんこ盛りに積んである。熟睡中に派手に揺れて落ちたら、間違いなく「痛い」。ケガもするかも知れない。でも結局面倒なので動かしてない。「瞬間的に反応して逃げられる」とは思ってないが、あのレゴが全部落ちてくるほどの揺れが我が家を襲ったとしたら、

 ぶっちゃけ家ごと崖崩れのように土手の下へ落ちるんじゃないかと思う。

だからとりあえず「出来る限りのこと」はするが、それ以上はしない。僕なりの「必要十分」が他の人にとって「不十分」である可能性は捨てきれないが、やっぱりこの辺りも個人差があって、トレードオフなんだよなって思うんだよ。
※もし頭の上のレゴを整理しようと動かしてみたら、ネズミとかカビとかで箱がボロボロになってて、

 見なければよかった・・・

ってショックを受ける可能性もあるわけで。そんなの最低だもん。

 人によって何が大切で何がどうでもいいかなんて、他の人にはわからないんだよ。

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