もしコンピューターがなかったら
「コンピューター」はこの場合、ゲームやPC、携帯などを指す。一応電子ジャーとかレンジとか車とかは除く。
コミュニティが凄く小さな状態のままだったんだろうと思う。僕は今41歳で、いわゆるコンピューターゲームに触れた最古の記憶は、小学校に上がるか上がらないかくらいのタイミング。旅先のホテルや地元の不良がたむろするような薄暗いゲームセンター。でも基本学校では禁止されてたりしたから、それほど遊び込むってこともなく、まぁ娯楽の一端だったと思う。なくなってもそれほど影響力がない娯楽。「コスモス」のガシャポンや、仮面ライダーカードや、メンコや、ラッセルヨーヨーや、スーパーカーケシゴムや、アニメやプラモや川やプールでの水遊びと言った「遊び」の中の一つだった気がする。ゲーム&ウォッチも大ブームになったけど、それがなきゃ生きていけないほど依存してたわけじゃないし、
※比較で言えばアニメや特撮の方が遙かにウェイトが高かった気がする。あと映画とか。やっぱり本当に「不可欠」なオーラが出たのはファミコンからだったと思う。
でももしファミコンがなかったら。
プラモをずっと作り続けていたんだろうか。友達と遊びたい、具体的に言えばガールフレンドや恋人が欲しいと自分磨きに専念したんだろうか。意外と勉強をガンガンやったり、何か明確な目標を抱いたりしたのかも、とも思う。<なさそうだけど案外思う。
コンピュータゲームのない暮らしということは、在りし日の風のように永田さんのように、トランプやしりとりや、ボードゲーム全般
※オセロや人生ゲームや野球盤など
シミュレーションゲームやテーブルトークRPGにはまっていった可能性もある。特に決してアウトドア派ではなく、運動能力に秀でていたわけではない僕などは、「ゲームブック」やマジックザギャザリングなどの「洋物系」のアナログゲームにズブズブハマって行った可能性が高そう。ただ親父がヘビースモーカーだった影響で、麻雀に行く可能性は薄かったとも思うけど。
高校の時はPCを買ってもらったにはもらったものの、そこに依存しすぎて過ごした記憶は薄い。学校行事にこそ心血を注いでいたし、友達ともよくゲーム以外で遊んでた。というか、
ネットワークに繋がる前のコンピュータ、およびコンピュータゲームは、トランプの延長だった気がする。
一人でも遊べるというメリットで言えばプラモやアニメの延長とも言えるけど、やっぱり「○○レベルまで上がった!」とか「○○で詰まってるんだけど!」みたいな情報のやりとりは、当時新しく非常に魅力的ではあったけど、たとえば「来週のダッシュ勝平超楽しみ!」とか「昨日のマクロス見た?」ってのとあまり変わらない気がする。ゲームを売ってる店はガンプラを買いに行った店であり(全く同じじゃないにしろ距離的ニュアンス的に)、古本屋を巡るように、中古ゲーム屋を巡っていた。
19歳でひとり暮らしを始めたときも、家庭用ゲームやPCにまみれた生活をしてはいたけど、それらが全て無くてもきっと「マンガ」と「アニメビデオ」と「プラモ」に埋もれた生活だったに違いない。ショッピングモールにゲームコーナーがなくても、きっとおもちゃ屋に入り浸るモテないブサメンだったに違いない。口数は多いだろうが。
一つ目の転機は、ニフティサーブで初めてパソコン通信をした頃だったと思う。目の前にいる友人とは別に、会ったことも直接話したこともない友達が出来て、コミュニティの距離的な半径が大きく変容した。情報はより広範囲から引き出すようになり、価値の絶対値が精度をどんどん増していく。ドデカイ車載携帯電話からポケベルになり、ピッチや携帯が出るまでそれほど時間は掛からなかった。遠距離は遠距離じゃなくなり、海外はすぐそばまで移動してきた。勇気を出して女の子の家の電話に掛けることもなくなり、そこかしこでいろんなあざとい商売が生まれたりした。
もし今コンピュータがなかったら、たぶん家に帰ってテレビを見ながら食事をし、一段落したらプラモを作るかマンガを読むか、はたまたレンタル屋で借りて来た映画を見るか。
情報は「集めようとして集まる」状況でこそ欲しくなる。小学校一年の頃、スターウォーズがどんな映画なのか、公開前に知りたいとは思わなかった。
※つか僕の周囲ではもっぱらスーパーマンの方が盛り上がってた。
見ず知らずの男女が知り合いになる「きっかけ」も今より遙かに限られていたけど、その分一つ一つのコネクトを重視したと思うし、それがいわゆる「昔ながらの人情」と呼ばれていたのかも知れないとも思う。AMAZONや価格.comではなく、地元の電気屋や本屋、おもちゃ屋で「馴染みの客」として満足と安心を買い、「秋葉原は電化製品が日本一安いらしい」というウワサ以上の期待も羨望もなかっただろう。
友達の家に遊びに行って「○○くーん、あーそーぼー!」って言ってた。今長男は、携帯とスカイプとネトゲで中学の時の友達と毎晩のようにモンハンをしてたりする。きっと「転売」が容易ならざる世界では、AKBのようなコンテンツがブレイクするのは、、、まぁおニャン子クラブレベルには盛り上がるか。というかそもそも「秋葉原から発信」されることはなさそうだけど。
もしかしたら冷戦も終わってなかったかも知れないし、「月にもたどり着いてなかったかも」知れない。江戸や明治の娯楽や文化が、今でも残ってる例は少ないから、たとえコンピュータがなくても、生活は何らかの変化が絶対あっただろうとは思う。遠くの人とのコミュニケーション、世界とのグローバルな商売がさほど重視されないということは、より近くのコミュニティが活性化して、たとえばカラオケとかCDやレコードと言った文化が今よりずっと強く大きな影響力を持っていたかも知れない。コンピュータとネットで「デジタルコンテンツの価値が下がった」なら、それがなければその価値は相対的に上がるはず。
たぶんオリンピックやワールドカップなどへの注目度も、個人的には上がったんだろうなぁって思う。娯楽の選択肢が減れば、当然残った物への注力度は上がるものね。で、それはイコールファン層の拡大、「将来の夢」として有力な選択肢になるということは、今よりもっともしかしたら「日本はスポーツの強い国」になっていたかも知れない。でもって今よりもっと「スポーツをやらない男子はモテなくなってた」かも知れない。っていうかこれはたぶんそうだ。
お笑いブームはコンピュータとは比較的縁が薄い。「やすきよ」から「ツービート」、お笑いスター誕生、ボキャブラ天国からインターバルを置いて「エンタの神様」や「爆笑オンエアバトル」と、周期的にブームは訪れている。テレビはきっとデジタルに変わっても、、、
っていうかデジタルには変わらなかっただろうな。
ウェイトが高く、「許されない状況」になっていたに違いない。っていうか、もっともっと売れまくって普及しまくって、今でも大概安いけど、もっとずっと安くなっていったのかも知れないけど。
まぁなんにせよコンピュータがなければ、こうして自分のくだらない話をみんなに読んで貰える機会もなかったわけで、
※高校の時クラスメートに読んで貰った日記がせいぜい?まぁ自店のチラシで挨拶文を書いてるからそれも延長っちゃ延長か。
その分「自己表現の場」として何か別ののはけ口を見つけようとオタオタしていた可能性は少なからずありますな。
※それこそアイドルにのべつまくなしファンレターを書きまくっていたりして。
今から「コンピュータのない世界」にするには、それこそドラえもんを実用化するくらいのことがない限りムリ。でもホントにもしもボックスに、
「もしもコンピューターがなかったら・・・」
なんてことを口にしたりした日にゃ、タイムパラドックスでドラえもんそのものが消失し、もしもボックスも、、、。
余談だけど、僕的にコンピュータ、ことインターネットとPCがあることで一番感謝したことは、正直黒寄りの話だけど、エミュレーターですね。襖の奥でカビが生えてるであろうPCエンジンやファミコン、メガドライブ、スーファミなんかの「青春の1本」だけでなく、当時行きたくても行けなかったゲームセンター、マイコンベーシックマガジン誌上でしか見られなかったゲームが、普通に目の前のモニターに映し出される。今でも初めてゼビウスが動いた日のことは忘れられない。
コンピューターって凄い!
って感動したもん。つか押し入れの奥に眠るVEGA9000DXや何枚かの基板はまだ動くんだろうか。あれはあれで初めて遊んだときに凄い興奮を覚えたんだよな。
「ネオジオじゃねぇ!!」
って感じで(笑。
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