刹那的な記憶
先日の「怖い話」の続き、みたいな話。
今朝かなり自分にとって「イイ感じ」の夢を見た。夢の終盤見ている間にそれが夢だと自覚し、「ああこの夢の世界観はいいなぁ。醒めなきゃいいとは言わないけど、またこういう夢が見られたらいいなぁ。でもきっと起きたらすぐに忘れちゃうんだろうなぁ」
・・・忘れちゃってるわけである。それもものの10分ほどで。
「見終わった頃にはその映画のタイトルすら忘れている」ほど、物忘れがひどくなる時期がいずれ訪れてしまうかも知れないと前回書いたけど、
ものの10分とは、、、それ以上である。
でもだからと言って、「もう夢なんてみたくない」とはならない。同じタイプ同じ世界観の同じような「イイ夢」は見られなくても、またきっと他のタイプの夢が見られるだろうと期待するのもあるし、実際その夢を見ている間の僕は、
それが(醒めたらすぐに)消え失せてしまうとわかっていても、その中で笑顔になっている。
記憶力がどんどん弱くなり、物忘れが激しくなっていって、例えば子供の頃、例えば学生時代の楽しかった思い出がどんどん「見えなくなっていっても」、その頃は確かにあったし、思い出せないから無意味ということもない。今の僕を形作っているのは、これまでの僕の経験であり思い出だから。
ただ、
あまりにも短い間、もっと言えばその体験中以外楽しさが無くなってしまう娯楽というのは、果たして本当に自分にとって価値があるものなのか、とも思う。僕が今こうしてブログを書いているのも、ただ「そう思った」だけなら、きっとこれも10分もせずに忘れてしまうだろう。というか、
こういうネタが書きたいな、と思った瞬間にメモを取るなりボイスで録音しておくなりしないと、その「書きたくて、そして読みたかったネタ」のことすら忘れてしまう。
つまりそれは、
もったいないからだ。
自分の文章に限らず、例えば音楽でも映画でもマンガでもいい、マンガが特にわかりやすいけど、週間で連載当時から読んでいても、単行本で欲しくなるマンガは少なくなかった。一度読んだマンガがまた読みたいという単純な衝動もあるし、所有したいという欲もあるだろうけど、
記憶を形として残しておく、というのも、今なら十分購入理由としてあり得る。
テレビを録画した映画、一度見てサクッと消せる人もいるだろうけど、特に面白かった映画は、とてもじゃないけどサクッとは消せない。HDDや、古くはビデオテープの劣化で見る事が叶わなくなったとき、結構なショックを受ける。もう残りの余生で一度も見る事がないであろうものであっても、、、例えば実家の本棚の奥にはまだ僕が昔録画した大量のビデオテープが「存在する事」が嬉しかったりする。もっと言えば、「それがあるからこそ記憶が繋がっている」という気すらする。
夢の「刹那さ加減」は、その中でも群を抜いている。起きた瞬間に書き留めておこうと思っていても、そのわずか一瞬で完全にデリートされてしまったりする。
何でなんだ!?
夢を書き留めておくと、それによって自我崩壊的な、メンタルダメージみたいなものを受けるみたいな話を聞いた事がある。つまり、それを脳が自衛してるってことなの?
でも普通に楽しくてイイ夢も結構あるよ!?っていうか怖くて嫌な夢は途中で(夢の中で)ホッペつねって自分から抜け出す事が出来るし。
マトリックスの世界観で、脳に「明確なリアル」としての信号が送られた場合、それが現実か非現実かの区別が付かなくなるという設定があった。「らしくて良い」と思う一方で、実際にそれがもし夢だったとしたら、
もっと曖昧でもっと不安定でもっと儚いものなんじゃないか、とも思う。
そして、
その儚さは、やはり現実とは大きな隔たりがあるのでは?とも。
さっきも言ったけど、「夢の刹那さ加減」は他とはレベルが違うもの。
・・・
ブログもそうだけど、自分で自分が作ったモノ、例えば設定とは違う色で塗ったプラモや、子供の頃学校のノートの表紙に書いたゴジラやエイリアンの絵や、マリオペイントで書いたハーロックや、オリジナルのレゴ、、、。あと最近だとテラリアのマップもそうだけど、自分が作ったモノというのはやっぱり思い入れが強い。きっと料理とか得意な人も多かれ少なかれそれに似た満足感というか、充実感を感じているのだろうと思うけど、
それって夢も同じだと思う。
自分の脳が、自分の脳だけで世界を作り、演出し、脚本を書いて、そして一回こっきりで放映される。
もちろんディティールは甘甘だし、つじつまも全然合わない、ご都合主義どころか「作者すら結末を知らない」物語だったりするけど、
間違いなく自分が作ったモノ。
それが簡単に雲散霧消してしまうことが、何とも言えずもったいない。っていうか、
出来るウチにもっとクリエイティブなことをしておくべきなんじゃないか
「刹那的に消えてしまうこと」ばかりで人生を紡いでしまうと、後に何も残らないというか、
振り返ったときの満足感が「弱い」気がする。
確かにセーブデータは残るけど、目に見えない(起動しないとわからない)データは、アルバムにしまい込んだ写真と同じく、記憶の底に埋葬されやすい。撮った写真なら飾らないとだし、目に見えるところに、手が届くところに置いておきたい。
でないと全ての記憶が刹那的に消費されてしまう気がする。
自分で音楽や絵が作れる人はホント羨ましいと思う。さすがに「自分の死後まで残る何かを作りたい」みたいな大仰な事を考えている人ばかりじゃないだろうけど、「生きている証」を、せめて自分が生きている間だけでも残したいという気持ちは、あって不思議ない。
こないだテレビでマサハルが、「チェッカーズで作った曲の印税だけで、毎年高級車が一台買える以上の収入がある」と言ってた。
実利が伴えばそりゃ言う事ないでしょうよ、とも思うが、
まぁそうじゃなくても何か形を、、、まぁブログもこれはこれで一つの形ではあるんだけどさ。あ、でも僕程度でこんなことを考えるんだから、例えばスピルバーグとか例えば山崎貴とか、例えば宮崎駿とか例えば西尾維新とかだったら、もっと凄い「刹那的な夢」をみていそう。そういうの、ちょっと興味があるな。▲▲。
あ!、伊集院が写真好きなのもなんだか今わかった気がした。つまりはきっとそういうことなんだろうな。
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