過去のゲームを未来に
逆は何度も書いている。今のゲーム機とかをファミコン黎明期に持っていくことが出来たら、さぞかし愉快であろうと。でも、過去のゲームを今よりはるか未来に持っていくことが出来たらどうだろう。
そもそも未来とはどんな世界なのか。車は空を飛んでいるのか。人類の大半は宇宙に移住しているのか。ゴミや高齢者や天然エネルギー問題とかは解決されたりしているのか。
当然僕なんかには想像もつかない。
想像も付かないが、たとえば今のテレビからコンポジット端子が消え、HDMI端子も消え、OSがWindowsでもなく、任天堂もマイクロソフトもないような「ちょっと遠い未来」には、たぶん完全に過去のゲームとの接点はなくなってしまっている気がする。今でこそバーチャルコンソールやPSアーカイブスとかで触れることは出来ても、それらに興味を抱く層が先細りになっていけば、次世代、次次次次世代ハードからは、そうした機能やサービスが無くなるのも不思議な話じゃない。
ドット絵がポリゴンになって久しいが、その先の技術革新は今のところ見えてない。いわゆる3Dも、僕らが子供の頃思い描いていた「ホログラム」とは違うベクトルで進化してしまったし、ヴァーチャルリアリティもまた、「裸眼で投影される立体を見る」のではなく、「ヘッドマウントディスプレイで世界の方を囲む」方向に転がってしまった。個人的にはそうした閉じた空間の娯楽には、あまり将来性を感じないのだけれど、、、。
夢のある話をするなら、やっぱり何もない空間に映像を投影する技術とかが生まれて、たとえば同じヴァーチャル空間でも、あんなヘルメットをかぶらずに世界を構築するような、「そこに立てば周りが別世界に見える」ような未来が来て欲しいとも思う。小さなスマホで高画質のゲームを楽しむ方向も「あっていい」とは思うけど、やっぱり大きくて派手なアトラクション的凄みもまた「あって欲しい」と思う。
シンプルでわかりやすいゲーム、たとえばトランプやソリティアは普遍なのだろうか。サイコロがなくなる未来は、案外すぐそこまで来ている気がする。周囲に将棋盤や囲碁盤を持ってる人は居ないし、僕らの子供の頃は多くのご家庭にあったオセロも、とんと見かけなくなっている。カードゲームは今でも細々とリリースされてはいるし、人生ゲームや黒ヒゲ危機一髪も、なくなりそうでなくならない。
でも、トランプやサイコロがなくなるような次元の未来には、さすがにそれらが生き残っているとは考えづらい。っていうか、あと20年もしたら、サイコロって単語が通じない世代が出てきそうな気がするのだけど、そんなことないのかしら。確率の勉強で使うからなくならないもんなのかな。
ともすれば荒唐無稽とも言える話ではあるけど、たとえば花札を知らない世代が今後増えそうだ、って話になると、きっと「かもね」と思うのではないだろうか。つまりはその延長だ。トランプもサイコロも人生ゲームも、そしてファミコンなどの2D系のゲームも、遠い未来には人類の大半がその存在を忘れ去っている時がきっと来る。それが何十年先か何百年先かわからないが、僕らがお手玉や「蹴鞠」のルールを知らないように、マリオや「十字キー」の存在に違和感を覚える未来が来る。
そんな未来に、ファミコンとカセット、そしてそれが動くテレビを持っていったらどう思うだろうか。
まずテレビの「重さ」「厚さ(奥行き)」「写りの悪さ」。その頃は当然テレビだけあっても「画面は常に砂嵐」なわけだけど、その砂嵐の時点で、
壊れてる
と思うこと請け合い。いや電波が来てないしアンテナもつないでないから、、、「アンテナって?電波って?」って事になり兼ね合い。そのくらい未来なら。「帯域のこと?」とか言われそう。これはマジであるある。
僕らが(今は見ることが出来なくなっている)超低性能のグリーンディスプレイのコンピュータや、弁当箱くらいの大きさの電卓、ランドセルくらいの大きさの携帯電話を見るような感覚のさらに上を行く感じになると思う。というか、
携帯デバイスとかは、たとえばガラスとかプラスチックの透明な板なら何でもモニターに出来るような、ブレスレットくらいの大きさに集約されるのかも。イメージで言えばトータルリコールのように、ガラスに近づけるとか触れることでそこに映像を映し出せる、みたいな。大きなガラス板なら大きな映像モニタになるし、小さな板ならプライベートなモニタになる。
そこにあの白とワインレッドの機械にコントローラ。
「デコボコ!」
みたいな?「今時ケーブル接続!?」とか、「ボタンとか久々見たわ」<超有りそう。全てがタッチセンサーになっていって、物理ボタンの存在そのものが希薄になっていく可能性。
ボタンを押し込むことが「重い」とか言われそう。
もう時代的に「十字キーの右を押し込めば、画面上のキャラが右に移動する」ということすら「薄れて」いてもおかしくない。一周回って、
「押せば動くんだ」
なんていかにもありそうな話。その時代は視線を「泳がせれば」キャラは動くようになっているかも知れないし、そもそも2Dキャラクターそのものが死滅しているかも知れない。音は原始的に聞こえるかも知れないし、
※僕らが琴とか太鼓の音を聞くような感じで
遊び方の説明がないことにスゲェ違和感を感じるかも知れない。
最初にスタートボタンを押すという動作で、「おもむろにテレビに手を伸ばす」。
間違いないあるある。
それ以降も何度もついついテレビの方に手を伸ばしかねない。全部コントローラで操作するんだよ、って言っても、
え?だったらどうやって画面とか拡大すんの?
とか、
友達とやれないじゃん?
※友達はすでに「その場に居ないもの」という前提
あ、あとこれもありそう、
「個人情報とか大丈夫なの?」
みたいな。そんなの登録する画面すらないんだけど、そんな未来なら「触れただけで指紋認証のように登録がリンクしてても不思議はない」。
そして動かし方もわかって、スーパーマリオの1-1で最初のクリボーに3体目がやられ、ゲームオーバーの表示。
「え?ゲームオーバーって出たけど、壊れたの?」
未来のゲームには、ゲームオーバーが無くなってるかも知れない。プレイヤーが遊びたいだけ遊んで、常に止めるときは任意で抜ける。そもそも「ゲームで死ぬ」という状況がモラルや法律で規制される未来だって考えられる。
「この時代のゲームって死ぬんだ、、、」
ありそう。
スクロールが2、3画面進むだけで、「これのどこが面白いの?」とか言いそうだし、「ずっと同じ画面なんだけど」とかも言いそう。いろいろ豪華になっていけば、同じような画面が続くスーマリは、やっぱり味気なくつまらなく見えると思うし。
というか、スーパーマリオって実はそんなに面白くないし。
あの時代だったからこそスクロールや巨大化や隠し要素が新鮮かつ衝撃的だったけど、今は単なる古典。単位時間当たりのイベントやモチベーターが希薄で、だからこそ僕がマリオメーカーで作ったゲームは「1画面とか」だったわけで。
もっとも、だからと言ってその時代のゲームを今の時代に持ってきてみんなが楽しめるかって言われたら、それはそれで何とも言えない部分はある。FPSを初めてプレイして「即酔う」人も居たし、どうしても音ゲーが上手く出来ない人も少なからず居る。エレクトーンが簡単に弾ける人が弾けない人の弾けない理由を理解出来ないように、
「え?そんなの右脳と左脳分けて考えれば簡単じゃん!」
とか言われかねない。未来怖っ。
まぁ実際今のプレステ4のコントローラをファミコン世代に見せてどう思うかって話と似たことを言ってる気もするけどね。「左手の薬指でコントローラの裏側を30度くらい弧を描いて動かすだけだよ」みたいの先にある未来って気もするし。
でもそんな未来でも、きっとずっと生き残り続ける、ルールを伝えられるゲームもあるんだろうなって思う。
たとえばテトリス。
あの「生理的に隙間を埋めたくなる」というモチベーターは、人間の生まれ持った感性を刺激するものだと思う。あと、
バーミン。
ゲーム&ウォッチのいわゆるモグラたたき。もちろん未来はタッチで叩く感じにはなっていくんだろうけど、過去のは過去ので楽しめそうな気はするんだよな。一瞬だけだろうけど。
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