人生の無駄とビデオ
無担保無計画で書き始める。思い立ったのは、
嫌いなシーンを飛ばすことと、好きなシーンを繰り返し見ること。そして、再生する動画について何か書けそうだな、と思ったから。
歳を取っていろんなことをすぐ忘れるようになった。ホント自分でもビックリするくらいすぐに、ほんの1秒前に思い浮かんだことでも、今思い出せないなんてザラにある。言葉にすると少し怖いことのように思えるかも知れないが、実際そう言う「ひらめき」は、そう大したことでない場合が多い。仕事や今まさに遊んでいるゲームなんかに関しては、それほど忘れたりはしない。重要でない事象を忘れる事に対して「甘い」のだと思う。
ともかく、「書こう」と思っても、実際にそれについて「書ける」ことは実はまれだ。今思い立ったのは、「まさに今」のことだから、忘れずに書き始めることが出来たが、仕事中、車を運転しながら、夢の中で、、、
大抵の場合はメモを取ることもままならない状況下で「ひらめき」は訪れる。
というか、メモを取ることが出来たとしても、
そのメモを読み返して、「メモの意図」を思い出せるとは限らない。
所詮ひらめきとはその程度のディティールでしかないのだ。
ただ、時折そんな中でも「これに関しては掘り下げたい」と思うこともある。そう言う時は、書いたメモを声に出して読んだり、どうしてもの場合は、音声として録音したりもしていた。まぁ音声メモは、
形として目に見えないので、「録音したことを忘れてしまい」、聞き直したことがなかったので、結局今は使ってない。つかたまたま聞いてみたところで、「何を言ってるんだコイツは」ってなることが大半だったし。
話を戻す。
僕は最近特にストレスの感じることを避けるようになってきた。とどのつまり映画やマンガの摂取中に「イラっとした」り、「以前読んで面白くなかった」りしたところを、サクッと飛ばす。そのくせもう一方では、
見終わった直後に巻き戻して、お気に入りのシーンを数回立て続けにリピートしたりする。
最近では「ドラゴン・タトゥーの女」でダニエル・クレイグがビンを拾うシーン。これなんかは、既に10回以上見直したりしている。そして見る度に、
うーむ何度見てもカッコエエ!
と思う。いつかは飽きる日も来るのだろうが、割と耐久力が高い。そしてそのまま見ていると、一回目二回目に気付かなかったことに気付けたりする。それは物語の中で意味を持つ伏線であることもあるし、単に僕の思い込みだけのこともきっとあると思うが、
イメージが広がる感じは嫌いじゃない。
以前ラブコメのエピローグを妄想で綴ったことがあったが、自分が好きな展開があるのなら、それを言葉にするのはとても意味がある。誰しも好きなマンガや映画、小説があると思うが、そうした好きな物語を、自分で量産、自給自足出来れば、それに越したことはない。
というか、手前味噌ではあるが、拙ブログもまた、(常時ではないものの)自分で読み返してニヤリと出来る時がある。概ね「▲」が付いているときがそうなのだが、それがもっと強烈に、もっと高濃度で、映画や漫画のシーンを膨らませる形で創造出来たら楽しいだろうなぁと思う。ドラゴン・タトゥーの女でも、ラストシーンで「失恋」するリスベットだが、あのあと何らかの流れで再びミカエルと出会い、今度は本当に彼の心を射止めることが出来るかも知れない。今の僕の力ではその「つじつま」を構築出来ないが、もし出来たら楽しいだろうなぁと思う。そして、
そう言うイメージの積み重ねってのは、やっぱり「繰り返し見る好きなシーン」がバックボーンとしてあるんだろうなぁと思う。
たぶんきっとハリウッドやピクサーにはそう言う「お約束のトリガー」がいっぱい共有財産として蓄積されていて、その中のサービスに関するセクションを具現化したのが「ディズニーランド」だったりするのだろうなぁと思う。これは、僕が以前マリオメーカーで面を作っているときに意識したことに似ている。
自分が楽しい、面白いと感じることを折り込み、自分がストレスに感じること、面白くない側面をどんどんそぎ落としていく。
「面白いだけにする」。
人によっては、一枚のアルバムの中に「捨て曲」があっていいと言う人も居るかも知れない。全部が全部名曲名盤大当たりばかりでは、「疲れてしまう」「逆に良さが薄れてしまう」と。
僕はそうは思わない。
面白いばかり、楽しいばかりで紡がれている物は、やはり濃度が濃く、テンポが良い。その時間はやっぱり無駄とは対局にあると思うし、歳を取れば取るほど、そう言う「純度の高さ」に牽かれるようになる気がする。ベストアルバムとか、
人によっては「このことか」と思うかも知れないが、
僕に言わせれば、
「前奏と後奏」歌のない部分すらも全てカットし、曲間の無音部分さえも「0」でイイとさえ思う。
物語性の希薄な曲であれば、「1番」だけでいいと思うし、「ニコニコ組曲」なんかは、歌ではないけど特徴的なフレーズを濃密に無駄なく連ねた物として受け入れられたと思うんだよね。
まぁアレが歳寄り向けとは言い難いけど。
歌と違って映画はそう言うところの垣根がまだまだ高いというか、著作権に関しては、「今でもまだ過渡期」だと思う。
今DTVで見ることが出来る映画がいっぱいあるけど、あれを「いつの映画」なのか意識して見てる人はそれほど多く無いと思う。中には、
僕らが子供の頃の作品だって、僕らが生まれる前の作品だってあるのに、
それを無意識で楽しめる「若い世代」は絶対に居る。
クラシックがそうであるように、映画とかも古い作品は著作権がフリーになったりする未来が来る気がする。でもって、その映像クオリティも、後の世であればまるで今作ったばかりのようなハイレゾに変換アップコンバート出来るようになる可能性も無くはないと思う。
「昔の映画を見ることが出来る」こと自体は、DVDの前のビデオレンタルでも十分に実現していた。しかし、
「昔の映画だと意識せずに見ることが出来る」ようになったのは、それほど古くはないと思う。
てか、僕の家にビデオデッキが来たのは、僕が中学生の頃だけど、そこから市販のビデオをレンタルするショップが出てきても、「僕が生まれる前のドラマとかがレンタルされるようになったりはしなかった」。
今だと結構前のドラマとかも動画で見ることが出来るよね。それこそ10年どころか20年前のドラマですらも。
僕がハタチの頃、生まれたばかりの頃のドラマなんて絶対見ることが出来なかったし、映画で言っても高校時代に自分が小学生の頃見たアニメや映画を再び見ることが出来る様になるなんて、、、それこそ極一部の人気作品くらいのもんだった。
でも今はかなりマイナーなところまでその「小学生時代の映画やアニメ」すら見ることが出来たるする。
一つ一つのコンテンツの重みが軽くなったのは、「価値」だけでなく「取り扱い」もなんだな、と。
これがどんどん加速していけば、いつか「面白く楽しいシーンばかりを繋げた動画」が、自分の嗜好に即した形で視聴可能になる未来が来る気がする。
「固い食べ物は悪だから」とビートたけしが言ったとき、僕は凄く納得した。「甘いは美味いだから」ってのもそう。言葉にする前は気づけなかったことが、言葉にしたことで現実になる。リアリティを「手にする」。
ストレスなんて不要なんだよ。無駄なものは無駄なんだ。全てのコンテンツはもっと密度を上げていくべきなんだ。てか、
店員がゆっくりしゃべってるだけでイライラしたりする。
だから僕がお客様に接客するときは、基本早口。そして、
より多くの情報を大量に、そして丁寧に投下することを心がける。
全て残る必要は無い。重要なのは、お客様が最後に笑顔になってくれるかどうか。少なくとも無駄とストレスで僕は笑顔になったりはしない。
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