つれづれに
プライベート寄りの話をいくつか。
●友達とカラオケに
高校時代尾崎豊のコピーバンド(のボーカル)をやってた友人と久々に会ったって話はこないだ書いたけど、そいつと約束してカラオケに行ってきた。
ギターを持ち込んで、弾き語りを少ししてくれたり、僕の好きな尾崎の歌をリクエストして録音したりしつつも、
基本はアニメ・特撮。
ただ、JOYSOUNDだったのだけど、
ビックリするくらい曲が見つからない。
というか、探し方が悪かったのかも知れないし、単純に「以前あったものが無くなった」のかも知れないけど、
例えば曲名で「ザ・ウルトラマン」を「入力出来ない」ので、「ザウルトラマン」で入れるとヒットしない。でも入ってる。ささきいさおとゆりかご会とかの中に入ってる。
キーワードを含むで検索出来ないのか?
「ダンバインとぶ」でも、当時歌ってた歌手「MIO」が、今「MIQ」になってたら、MIOでは見つからない。歌いだしで探す場合でも、「合っててもヒットしない」。
アニソンに冷たい世の中だよ・・・
まぁそれでも二人で知ってる曲を二人で大声で歌うのは気持ちが良いし、オタスケマンやイッパツマン、「嗚呼、逆転王」を「♪嗚呼~三冠王~」って二人して変えて歌うのもまた良し。基本1番で止めて次から次へ歌っていくのがテンポが良くて好きなのに、
曲が見つからなすぎて、歌ってない時間のが長くなってしまう始末。うーむ。
機械とか全然触れないんだけど、例えばUSBメモリやスマホに入ってる曲を、ネットから歌詞を探して自動で表示しつつボーカル部分を抑えるなり消すなりしてカラオケ風にする、みたいなことってまだ出来ないのかねぇ。技術的には不可能じゃないと思うのだけどな。
結局3時間ちょいくらいしか歌わなかったな~。あとスゲェタバコ臭くてビックリした。禁煙室じゃなかったからってのもあるだろうけど。
●同窓会関連の女子と懐かしい感じの話を
話していてこそばゆくなるような話をした。上に書いたヤツとも似た話をしたのだけど、
なんか高校時代に戻ったような気がした。
・・・
相手は自分を映す鏡。自分の中にある嫌な部分や弱い部分を、相手の中にもあると思いがちだし、その思いが強くなっていくと、どうしても感情的で、視野が狭くなって行きがちになる。でも実際はそんなことはない。確かにゼロではないかも知れないけど、フォーカスして拡大解釈してるに過ぎなくて、結局人は人、自分は自分、常識や当たり前なんてものはどこにも存在しない、僕はそう思う。というか、そう考えると、いろいろ合点が行くし、理解も許容も出来るようになる「キャパシティ」が増える気がする。
いろんな人に出会うということは、いろんな当たり前に触れるということ。いろんな当たり前に触れるということは、いろんな正義を知るということ。それを知ろうとしない人間は、他人を理解しようとしないのと同じ。理解しようとしないということは、結局は孤立してしまうことにも繋がる。もちろん孤立が自分の意志で選んだ道であるなら、誰に文句を言われることでもないかも知れない(まぁ他人に迷惑を掛けない範囲で)。だけど、それってワガママと紙一重なんだよね。果たしてそれがポリシーや理念という確固たる意志の上でのチョイスなのか、ただ自分勝手に楽な方へ逃げただけなのか。
僕は理解する選択肢を選びたい。
そして、出来うるなら、隣人にもそうあって欲しいと思う。いや、出来うるなら、全ての人にそうあって欲しいとさえ思う。
「結果にはすべからく原因がある」。ある人がある人の所作に対して不条理を感じ、憤りを抱いたとしても、感じさせた側には避けられない事情があったかも知れない。これまでの経験が、これまでの人間関係が、不条理を承知でそのチョイスをさせてしまったかも知れない。甘えかも知れないし、でもそうじゃないかも知れない。どこまで掘り下げようと納得出来る真実に出会えない、いつまで経ってもその憤りを収めることが出来ないかも知れない。
でも出来るかも知れない。知ることで、想像することで、その不条理の訳、その人の内側が見えるかも知れない。
もちろんそれは真実じゃないただの妄想かも知れないけど、重要なのはそれが見えたとき、
結構憤りが収まるってこと。
相手の都合、相手の理由、想像の羽根を広げ、高くまで飛んで行くと、今まで見えなかった視界が拓けたりする。
それが「キャパシティが広がる」ってこと。感情的になりにくくもなる。
ただそうは言っても、どうしても譲れないところに触れちゃったりすると、菩薩のままでは居られないのも事実なんだよね。てか小学生時代の僕なんかはそれがホントに顕著で、とにかく「協調性がない」と言われまくってたし。でも逆にいろいろ学んだりもしたわけだけど。
それに、感情的にならないことが必ずしも正解というわけでもないし。
時にはタガを外してぶつかることが、最良の結果に繋がることもある。人間裸の心でぶつかり合うってのは、つまりは感情のぶつかり合いだもんね。
ただ、それはあくまで最後の最後。泣きながら叫ぶレベルでの話じゃないかな、と。
そう言うのも嫌いじゃないんだけど、さすがにこの10年以上そう言うのはないんだけどさ。
・・・
とまぁこんなような話をね。てか我ながら若いな。
●同窓会の記念誌に
学年代表として原稿を誰かに書いて貰ってくれ、と言われたので、
僕が自分で書いた。
なぜなら、僕は僕の文章が好きだし、僕以外に僕の好きな文章が書ける同い年の友人を知らなかったから。
自分なりにそこそこ上手く書けたので、実際の記念誌に載るかどうかわからないが、ここに転載しておく。多少の個人情報が混じってるかも知れないが。
※学校名だけ「母校」に変更した
・・・
青春ってのはスポットライトのないドラマだと思う。誰もが誰かの脇役で、人知れず涙したり、悔しくてフテ寝したり。でも今の自分、四十八歳の自分の毎日とは比べものにならないほど輝いてたと思えるのはなぜ? 勉強出来なくてしょっちゅう追試受けて、彼女も居ないくて、部活もろくにやってないのに、毎日飽きもせず通ってたのはなぜ?
それはその場所が楽しかったから。
購買のコロッケを食べ、夜中まで文化祭や体育大会の準備をし、時にはチャリで遠出する友達がいたから。僕のことを呼び捨てにしてくれる、遠慮も気遣いもなく、ウソも繕いもない、ガチの友達が居たから、僕は三年間楽しく学校へ通ってた。片道徒歩五分。
時を経て、当時僕の担任だった先生がステージで話をする。式のあと僕が先生に会いに行くと、先生は僕のことを覚えていて、「出来の悪い生徒だったなぁ」と笑ってくれた。僕の長男の入学式の話。僕はこの高校でかみさんと出会い、二人の子供も母校を卒業した。
スポットライトは、僕らではなく、この母校を照らしてたんだと思う。
・・・
うーんオレってば天才?
| 固定リンク
コメント
天才
かっこい。
投稿: 長男 | 2018年6月30日 (土) 02時08分