永遠の幸せ
もしも願いがひとつだけ叶うなら、あなたは何を願いますか?
昔から何度も繰り返されてきた問いかけ。まぁ場合によっては「1億円貰ったら」とか「三つだけ願い事を聞いてやろう。ただし増やすとか殺すとかそう言うのはダメ」みたいなのもあったりなかったりだけど、、、
僕はこれまでその問いの答えを常に、
笑顔で老衰
としていた。大金持ちになっても、社会的に成功しても、まぁ仮に美人と結婚しても、子供がノーベル平和賞を取っても、、、もしくは、乞食になっても、会社が潰れても、僕ひとりだけ生き残っても、僕だけが死ぬことになっても、
その時が笑顔で、かつ事故や病気ではない、「老い」による死であるなら、それは全ての願いに勝ると思ってきたから。
実際その話をすると、10人中10人が「それが一番かも」と言ってくれる。それほどまでに「最後に残る願い」として、「幸せな結末」が何よりも魅力的で、「唯一願うこと」だからだ。
しかし、今日ふと思った。
「永遠に幸せにして下さい」
これはどうか。この願いはもしかしたら「笑顔で老衰」よりも素晴らしいのではないか。
「永遠」とは、「永遠」である。永遠を辞書で引くと「時空を超えていつまでも変わることなく続くこと」とある。時空を超えていつまでも変わることなく幸せであり続けることが出来るなら、それは究極であり、これ以上はない気がする。
永遠であること、それはすなわち「不死」であることだが、
不死のデメリットは、それが幸せではないことだ。自分だけ生き残ってしまっても、家族や世界が滅びてしまっては元も子もない。手塚治虫の火の鳥において、永遠の命を与えられた我王は、その苦しさで気が狂ってしまいそうだった。星が滅んでも宇宙を漂う意識として存在し、さらに別の星と共に生き、そしてその星の終末にも立ち会う。
永遠の命とは、「永遠の牢獄」である。
しかし、そこに「幸せ」が加味されると話は別だ。牢獄が天国になったとしたら、そこにある永遠は苦痛でも何でもない。というか、もし「永遠の幸せ」が受諾され、実行されるとしたら、それはどういう状況なのか。
一つには、今の世界が未来永劫さしたる変化もなく続いていくという可能性。なぜなら僕は今それなりに幸せであるし、これがずっと続くのなら、100年だろうと1000年だろうと、1億年だろうと1兆年だろうと、「まんざらでもない」と思う。老いず、衰えず、死なず、傷付かず。今居る人類ひとり残らずこのままで流れていく。気持ち悪いとか不思議とかの感情ではなく、冷静にそれをイメージ出来るなら、
案外悪くない
そう思う人も多いと思う。ある意味正解という気もする。
そしてもう一つ。これは結構怖い方向の考えだが、
不幸せになる寸前に、何かが変わる。
それは、僕の記憶が改ざんされるのかも知れないし、僕自身という人間が別の人間にすり替わるのかも知れない。ただ意識だけが永遠に幸せを甘受し続けていく。
僕はフンコロガシになって、目の前の牛のフンを前に満ち足りた気持ちになる。しかしその牛に踏みつぶされる寸前に、地球となり、その星に生きる全ての動物や植物を温かい目で見つめているかも知れない。
幸せであることが、人としての幸せだとは限らない。
まぁ最初の条件付けで「人として」と注釈を付ければよいのかも知れないが。ただそれでも今の自分とは全く別の誰かにスライドする可能性はあり得る。僕が神様だったら、全世界、いや、全宇宙を永遠に同じサイクルで回し続けるより、ひとりの人間の人生を適宜いじった方が、よっぽどお手軽と考える気がする。
全く別の考え方としては、「不幸も幸せのスパイスとして内包する」という方向性もある。一番わかりやすいところで言えば、
甘い大福のあとの苦い抹茶。これは幸せだろう。
「苦い」が「幸せ」。大金持ちの王子さまが、貧乏な庶民の暮らしにワクワクするという展開は、枚挙にいとまがない。むしろ常に満ち足りていることはそれすなわち幸せではない。幸せとは、その抑揚も含めて幸せなのだ。
当然思い通りでもダメだ。「これって幸せなのかな?」と思った瞬間、自問自答した瞬間に「幸せだわ、これは」と思えば良いのである。「苦しい、、、でも幸せ」「哀しい、、、でも幸せ」「寂しい、、、でも結構幸せ」。問題は幸せであることであり、苦しくてきつくて哀しくて切ないことに「幸せが含まれていれば」それは幸せなのだ。
そう考えると、結構このルートはずっと楽しそうと言う気がする。ただ、ここでキーになるのは「永遠」の方だ。
「死ぬまでずっと幸せ」
であるなら、このルートが正解である気がする。「笑顔で老衰」もこの中には含まれると思うし、満ち足りて死ぬのなら、それ以上求めることもない。ドラクエの新作を待ちながら、未練を持って死ぬわけじゃないし、かといって自分ひとり生き残って「絶対的不幸」になるわけでもない。だが、今回のお題は「永遠」である。
絶妙なさじ加減であっても、いつかは飽きが来てしまう。これはひとりの人間であれば、間違いないと思う。そこに幸せはない。つまり、このサイクルを続けるためには、
途中でリセットされるしかない。
一度見た名作映画をもう一度MAXの状態で楽しむには、記憶を操作されるしかない。条件には「記憶を操作せずに」は含まれていない。
端から見たらそれは果たして本当に幸せなんだろうかと思う。今の家族とは全く別の家族と共に生き、そして不幸になる前にまた別の家族の一員として生き続ける。本人は幸せを感じ続けるが、
「本人」とはそもそも誰なのか。
意識として転移したのが本人なら、その後の抜け殻は誰なのか。抜け殻は本人ではないのか。抜け殻は幸せである必要がないのか。
なんだかサスペンス映画の様相を呈してきたが、、、
ぶっちゃけ、「永遠の幸せ」とは矛盾だと思った。永遠に幸せであり続けることは出来ないと。人生には必ず結末がある。それが幸せな結末であることが何よりも素晴らしく、永遠に結末にたどり着かない人生は、それすなわち幸せとは言えない。
人は、ひとりの人間として生まれ、そして死んでいく以上の人生を歩めるように設計されていない。だから、もしそこにあり得ない永遠を組み込もうとしても、必ずほころびが出来てしまう。
ジーニーにその願いを伝えたら、彼はこう言うかも知れない。
人であることを捨てることになりますが、いいですか?
僕の答えはNOだ。そして、続けて口にするのは、
じゃあ、「笑顔で老衰」をお願いします。
やはりそれ以上の願い事は無い。
ちなみに僕がその願い事に気付いたのは小学生の頃。結構前の話だが、今持ってかしこい子だったんだなぁと思う。▲▲。
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