昔のこと
昔のことを話始めたらジジイの仲間入り。そんなことを思いつつ、リアル年齢48歳の僕は実際相当ジジイ寄りなわけで。書きたいことを書くのがこのブログなわけで。
前にも書いた気がするけど、自分がひとり暮らしをしていた頃のことを書く。長男や娘も今は都会?でひとり暮らしをしているが、
生活環境は相当違うだろうなと思う。
前書いたことをまた書こうと思ったのは、その時何を書いたのか思い出せないからなのと、「記憶してるうちに残しておこうかな」と思ったから。別段「ソレ系」の不治の病に冒されてるわけではないのだけど。
僕がひとり暮らしをしていたのは、静岡県小笠郡※現在はたぶん掛川市にある大東町というところ。2階建ての町営住宅は、駐車場と併せて家賃月11000円くらいだったと思う。一応「修行」という名目だったけど、普通に月10万チョイの給料を貰えていたし、実家に送金したりもしてなかったので、生活するには全く困らないレベルだった。強いて言えば、僕にはお金の掛かる彼女も居なかったし、ギャンブルもお酒もたばこも嗜まなかったし、そもそも基本田舎だったのでお金を使うような場所も、
ゲーセンくらいしかなかったし。
そこには高校卒業して一年浪人した翌年から5年くらい居た。最後半年くらいは今のかみさんと同棲してたけど、概ねひとり暮らし。最初の一年は「セイシュンの食卓」を見ながら毎日自炊。汚い町営住宅だったけど、一応風呂トイレがあり、キッチンのある部屋以外に2部屋。四畳半と六畳間が2階に。
契約してる駐車場までは徒歩1分。アパートの目の前にある駐車スペースに止めてると「怒られる気がした」。怒られた記憶はない。ちなみに庭も一応あったが、住み始めて最初の一週間くらいで完全放置。洗濯物は全て屋内干しになった。海から車で2、3分のところだったし、太平洋岸だった&2階は両側に窓があったので、風通しはすこぶる良く、そこまで乾くのに手こずると言うこともなかった。てか、
服を脱いだら洗濯機へ、
ある程度溜まったら洗濯して脱水してすぐに干す
着るときは干してあるものから取って着る
このサイクルだった気がする。もっとも全ての着衣を「一回着たら洗う」ワケではなかったと思うけど。あと、こたつ布団や毛布は、
5年間で1回しか洗った記憶がないけど。
まぁ死ななかったんだからいいか。
自炊していた頃は当然米も自分で炊いていたが、
※あとかみさんが来てからは料理をしてくれるようになったが
自炊を止めて、かみさんが来るまでの間は、
洗わずに放置した炊飯器の米が、掛け値無しリアルな「腐海」のようになってた。
ムシゴヤシが午後の胞子を飛ばしてる、、、状態だった。フタ開けたら「ボフッ」って感じだったし。
料理も最初の頃はマジメにやっていたけど、途中で「いくらマジメにやっても消化しきれない野菜がある」事に気付いてからは、ジャガイモとかにんじんは「直方体」に切るようになった。皮を剥くより圧倒的に早いし、どのみち使い切れなくて捨てるくらいなら時短を図った方が賢い。
ちなみにその地区は、特にスイカやメロンの栽培が盛んで、野菜もそんなに高くなかったと思う。つってもスイカやメロンがいくら安くても、気軽に買うもんでもなかったけど。
職場は、アパートから車で7分ほどにあるスーパー。建坪はどのくらいだろ、2000坪くらい?平屋で、3分の1が「ヤオハン」という食品スーパー、3分の1が「ビッグエイト」というヤオハン系の家電店。残り3分の1を衣料品、薬局、ブティック、靴、リカー、パン屋、寝具店、総菜屋、果物屋、おもちゃ屋、ゲームコーナーなどで埋めていた。
今はヤオハンもビッグエイトも無くなって、10年くらい前に行ったときには、ビッグエイトのスペースでなんだかわからない骨董品みたいなものが置いてあってビックリしたけど。
※あとおもちゃ屋とかも無くなってた
スーパーの近所には、レンタルビデオ店、小さな中古ゲームショップ、セブンイレブンなどがあって、アパートから仕事場とは真逆の方向に、10分ほど150号線を走らせていったところには「ZEN」という本屋があった。
主立った僕の生活空間はコレだけだった。
食材、食品はヤオハンやパン屋で買い、家電は全てビッグエイトで買った。ゲームはテナントのトイカップというおもちゃ屋で買った物もあるけど、実家までの道すがらにあるゲームショップや、掛川駅近くのエマーソンという当時ファミ通にもチラシを載せていた中古ショップで買ったりもした。当然服は自分が働いてるお店。つってもそんなにおしゃれではなかったけど。
※ただ仕事はYシャツとネクタイ必須だったので、綿パンと併せて「なんだか変?」な格好で働いてた気もする。
僕が働いていた5年間では、特に景気が悪いと言うこともなく、競合店が出来ると言うこともなく、年に一回のお祭りには、県外から「竿燈祭」を呼んだり、海外に社員旅行へ連れて行って貰ったりもした。当時働いてた自店の年商は7億超えてたくらいだったから、今思うとみんなお金持ってたんだな、と。
一人お得意さんの男性の方が居て、スーツでビシッとした格好してたけど、どこかメイクが女性っぽくて、でもとても良くしてくれたので、
※オススメを気持ちよく買ってくれたり、欲しい品をリクエストしてくれたり
僕が辞める時は御挨拶したりしたな。名前忘れちゃったけど。
辞めるとき挨拶したのは、一緒に遊んでくれたゲーム仲間と、セブンイレブンの女性店員<毎日のように昼飯はそこで買ってた。特に「ほうれん草を卵とコーンとベーコンであえたヤツ」が好きだったな~。
あとZENの店長。
ZENは本当に足繁く通ってた。毎月何冊買ってたかわからないほど。マンガは予定表を見ながらメモ書きを店長に渡して、「今月はこれだけお願い」って感じだったし、ゲーム雑誌だけでも月10冊以上買ってた。
※ファミ通、ファミマガが毎週だったから、それだけで8冊。ヒッポンスーパー、○勝PCエンジン、BEEP、ログイン、コンプティーク、ゲーメスト、他にもテクノポリス、ベーマガ、ポプコムとかも買ってた。
かなりのお得意さんだったと思うから、行かなくなってちょっとショックだったかもな~。
ちなみに一回だけかみさんが徒歩で「行ってみた」って言ったことがあって、
思ってたよりスゲェ遠くて、途中で遭難するかと思った
って言ってた。車で10分とは言っても、特に混雑することのない直線150号線は走りやすく、信号も少ない。徒歩だと往復3時間くらい掛かる距離だったのかも知れない。
ちなみに、外食は僕の記憶にある限り、
一件しか覚えてない。
そもそも田舎にはマクドナルドすら無かったし、何だろ、別に外で食べたいとは全く思わなかったんだよね。車で移動することを抜きにしてもお酒も飲まないし、今の僕が「安くて美味しい物」にこだわるのは、当時の生活習慣が根底にあるからかも知れない。
「一件」は、掛川にある「とんかつまえだ」。初めて行ったのは、店に来た問屋さんを掛川駅に送っていく時に、昼飯をそこで食べてきて、と言われた時。一人前1500円のヒレカツ定食がとにかく美味しくて、と言うかお米もお味噌汁も野菜までも美味しくて、以来チャンスがあれば送り届けつつ会社負担で飯を食わせて貰ってた。てか休みの日に自腹で食いに行ったこともあるし、覚えてないだろうけど長男も行ったことはあるんだよね。
調べてみたらまだやってるみたいだったけど、この20年くらい行ってないから、当時のご夫婦じゃないかも知れないな。てか、
凄く美味しい外食先があるなら、「食べるならそこ」ってなる気もした。
ゲームコーナーでは、地元の中学生や近所で働いてる若い連中と、しょっちゅう対戦したりスコア競ったりしてた。あまりにもよく居るもんだから、オペレーターのおっさんとも親しくなったし、大会開くなら商品出してやると言われたり、置くゲームのリクエストとかも。
当時はバブルだったからか、そのスーパー全体にかなり活気があり、田舎のスーパーなくせに、置かれてるゲームはバリバリ最新のものだった。てか、
僕を筆頭に、ベラボーにお金を落とすプレイヤーが居たから、オペレーターも新作を入れやすかったんだと思う。
餓狼スペとかスパIIXが最盛期の頃で、たぶん発売直後に入ってたんじゃないかな。餓狼2だけは近所のレンタルビデオに先に入荷して、みんなで押し寄せたのもいい思い出。特に、
いきなり火吹いた!!
ライデンがいきなり火を吹いた時のショックは今でも忘れない。コマンド表に載ってない技で、どうやって出したのかもわからない。当時既に竜虎の拳が出ていたので、隠しコマンド的なものであることは推察されたが、それでもなかなか出なくて、でも僕らの情熱は凄まじく、当時も今も最も出すのが難しいとされるローレンスブラッドの超必殺技でさえも、
右に3周左に3周さらに右に3周を超高速で回して全部のボタンを押すと出る!
※うろ覚え
いや、確かにそれでも出たんですよ。で、そこから徐々に入力を減らしていったりとか。
当時は当然のようにインターネットもなく、タイミング的にはアパートにPC9821Apという最新最強のパソコンを、お袋が「大学行くために貯めてたけど、まぁアンタにあげるわ」と100万円出してくれて、
※今はとても貧乏です・・・
それで始めたニフティサーブによって、餓狼スペでリュウ・サカザキを出す方法を知るまで、ゲーメストの情報だけが頼みの綱だった。頼みの綱だったのだが、、
自力で出す喜びがあったのも事実。
ちょっと離れたゲーセンにバーチャファイターが初めて導入されたときのことも覚えている。
既にゲーム自体は見たことがあったので、衝撃という意味ではさほどではなかったのだけど、とにかく体が6ボタンと方向ガードで慣れきっていたので、ボタンのガードや全方向に移動する感覚が掴めず、それでもサクッと体力が減ってしまう感じとかが新鮮で、個人的には「妙にアニメーションパターンが好くないKOF」よりずっとフックした。
ちなみに当時のゲーセン、ゲームコーナーにあった他のゲームと言えば、、、
レイフォース、フィグゼイト、バツグン、ダークエッジ、戦国エース、ガイアポリス、あとネオジオ系のワールドヒーローズ、ニンジャコマンドーとかが熱かったかな。
特にバツグンはスゲェ好きで、むちゃくちゃやってたのに、いきなりオヤジがレイフォースに切り替えやがって、「おっさん、バツグンむちゃ好きだったのに何で替えたの!!」と詰め寄ったら、
「こっち(レイフォース)も面白れぇから」
と、さも商売的な理由っぽい感じで返され、渋々遊んでみたら、
まんまと面白れぇでやんの!
ものの二日でバツグンのことなんざ忘れてたわ。
当時バツグンもレイフォースもシステム基盤で、特にレイフォースはタイトーが結構気合い入れて作った最新の縦シュー。ゲーム性もグラフィックもバツグンとは違う方向で練られており、かなり長期的にハマりまくってた。
あとはニンジャコマンドーの必殺技。まぁコレについては何度も書いてきてるので、今更ここで書いてもなんだけど、一人で2コイン入れて、「両手で爆裂究極拳を交互に出しながらラスボスまでクリアする」という遊びが最高に楽しかった。途中その僕のプレイに感化された中学生が、同じようにして「超オモシレーーッス!クリスさん!」
※当時は別のプレイヤーネームだったけど
って満面笑顔だったのもいい思い出。
自宅に呼んで夜な夜なゲーム三昧だったり、5年の間に高校生だった友人が仕事に就いたり。ときめきメモリアルもこの5年間で発売された一本だったけど、ちょうど発売日の頃はかみさんが一緒に住んでたので、
買ったけど一度もプレイ出来なかったり。
てかコレに関しては、遊べなかったことよりニフティの専用掲示板が全歴史の中で最も熱かったと言うその瞬間に立ち会えなかったことの方が悔しかったな。
ちなみにニフティサーブは、主にテキストを使ったパソコン通信のサービス。「主に」というのは、一部のサイトで、「エロ写真」をダウンロードすることも出来たから。
たかが1枚のエロ画像をダウンロードするのに、30分とか待たされたりしつつ。
でも今でもその写真は鮮明に覚えてるんだよな。データとしてはもう見つけられないだろうけど。あれはあれで楽しかった。
PC9821では当然ゲームでも遊んだが、PC88の時みたいに友達が回してくれることもなく、そもそもそこまで大量にリリースもされてなかったので、吟味しつつ購入。てかぶっちゃけネオジオやらスーファミやらPCエンジンやらメガドライブやらゲーセンやらで大忙しだたので、そこまで傾注する間も無かったと言えば無かったのだけど、
ウルティマアンダーワールドだけは、スゲェ面白かった。
もう今の目で見てもそんなに楽しめないタイプのゲームではあるけど、当時まだポリゴンフィールド系のゲームが極めて珍しく、せいぜいぎこちなさ爆発のアローンインザダークが出てた程度。てかあれはエポックメイキングではあったかも知れないけど、ゲームとしては遊びにくくて、そんな面白いと思わなかったし。
※スーファミで出た「ドラッケン」みたいなもん
ウルティマUWは、一人称視点で、キーボードとマウスを使ってダンジョンを探索するタイプのゲーム。既にスーファミでダンジョンマスターも出ていたが、あれはポリゴンではなかった。つまりUWはポリゴンで構築された「自由度」が高い世界で、ジャンプしたり飛んだり、もちろん戦ったりしながら最深部を目指すタイプで、
何と凄い世界なのか!と。この新しさは、本当に面白い!と。
ちなみに2も出たが、そっちはさほどでもなかった。
・・・
生活はほぼ六畳間の中。布団は万年床で、目覚ましが鳴ると枕元の菓子パンをかじりながら着替え、歯を磨いて仕事場へ。目覚ましは主にステレオのタイマーで鳴る「浪漫飛行」。ちなみにステレオにはテレビやゲーム機が全て接続されており、ゲームの音楽を録音、録画出来る環境も整ってた。
音楽に関しては、実家に毎週のように帰る時期があって、実家近くにあるレンタルCDショップに行っては、10枚前後旬な曲を借りて、テープに録音。当時は高校の時の友人でもあるTと、レンタルに行ったり、地元のゲーセンに行ったりしてた。出会った当初はそこまでゲームをやるようなヤツじゃなかったけど、結果的にはズブズブと引きずり込んだ感じだったな。
今でも当時のカセットテープがいくつか残ってるけど、聞く方法が一切無いんだよな。
ちなみにひとり暮らしの生活は、築30年近い町営アパートであったこともあり、結構ゴキブリやらクモやらムカデやらナメクジやらと対峙することも多かった。最初はビクついていたけど、最終的に、
殺(や)らなければ安息はない。
と気付き、以来どんどん平気というか、殺すまでの時間が短くなっていった。ただ、仲の良かった友人が、
ティッシュ3枚で手づかみしたときは、「スゲェヤツがいたもんだぜ・・・」って感心したけどね。
どう考えても気持ち悪いだろうに。あと下手したらベタッとしたものが出るだろうに。
風呂も普通に入ってたはずだけど、あんま記憶にない。シャワーだけ浴びてたってこともないと思うけど、、、やっぱ記憶にないなぁ。見た目の記憶はあるけども。
・・・
庭の雑草は凄まじく成長し、二階の窓からジャングルが見えるレベルだった。セイタカアワダチソウの茎は、直径が4cmほどにもなり、もはやのこぎりでなければ伐採出来ないほどになった。
見かねたお隣のおばさんが、「もしよかったら手入れしてあげるけど」と言ってくれたので、「なんなら使って貰って結構です」とお願いするまで、何年間かそう言う状態だったな。あとかみさんが来て洗濯物を外に干すようになってからは、またちょっと変わったけど。
とにかく、車が無ければどこにも行けないような生活環境だったし、行くと言っても常日頃遊んでるのが自分より年下のゲーム友達ばかり。麻雀や競輪競艇をやるわけでもなく、パチンコすら興味が湧かなかった。何件かはあったと思うけど。
海に近かったけど、特に地元の友達が遊びに来たときにドライブがてら行く程度で、泳ぎに行ったりとかもなく、、、てか、一番近い海まで来るまで2、3分なのに、たぶん一度も見に行ったことがなかったと思う。砂浜とかあったんだろうか。
テレビは、主にゲーム。アニメやドラマはほとんど見てなかった。小泉今日子と陣内孝則の「愛し合ってるかい」くらいしか記憶にない。アニメの記憶も一切ないなぁ。
映画も見に行った記憶がない。見に行くとしても地元に戻って豊橋の映画館とかだったと思う。そもそもアパート周辺には一切無かったと思うし。掛川とかにはあったんだろうか。
掛川にはお城があるが、行ったのはかみさんと一回だけ。ホントに外出することがあんま無かった。ただ、掛川のエマーソンはそこそこ行ったので、その道中の道は良く通った。信号が少なく、道も悪くなくて、たかだか往復1時間かそこらのおでかけだったけど、結構僕はその道が好きだったんだよな。
今度の休みにでも出かけてみようかなって思うレベルだわ。
・・・
僕がそこで働いていたのは20歳から25歳くらいまで。当然一緒に働いていた人達の大半は年上だったので、今僕が48歳であることを鑑みると、その人達のほとんどが定年退職か下手したら死別してると思われる。
社長の息子がほぼ僕が辞めるのと同時期に会社に入り、面識もあったので一緒に仕入れに行ったこともあるけど、今大阪で出くわすことはまずない。たまに支店の店長と会うくらい。
当時一緒に遊んで居た友達が今何をやってるのかはわからない。生きてるのか死んでいるのかも。でももし会えるならまた会いたいとも思うんだよな。僕だけが過去の記憶を覚えてるだけで、みんなは僕のことを何も覚えてないかも知れないけど。
てかZENの店長とか絶対居ないだろうな~。ちょっと会いたいけど。
→調べたらもう店がなかった・・・諸行無常
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