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2019年6月 4日 (火)

昔の友達と飯を食う予定

 見栄を張らなきゃダメなのか、「一緒に飯を食った」という事実を楽しめばそれでいいのか。高校に忍び込んで写真を撮ったりしちゃダメなのか。中学の友達を呼んじゃダメなのか。

 これっきりのつもりってどんな感じなのか

「思い出」は、今からでも作れる。それが過去になった時点で思い出になる。過去とは区切り、決別。コンタクトを取らなければそれで簡単に過去になる。過去にしたいのか、したくないのか。せざるを得ないのか、自然にそうなっていくものなのか。抗う意味。抗った結果そのさきに何がある?何を期待する?何に絶望する?

思い出は色あせるものなのか。色あせてしまうことはツライことなのか。昔の歌を聴く時のように、懐かしさを感じるのは、そこからどれだけ離れたかに寄る。毎回カラオケで歌ってたら、きっと色あせないし、懐かしくもない。でも色あせた思い出もまんざら悪くない。時としてそこに色が戻ることもあるし。

日常に戻ることは、嬉しいのか。寂しいのか。しょうがないのか。当然なのか。何を望むのか。何が楽しいのか。後悔するとしたら、何を後悔するのか。やって後悔するのかやらなくて後悔するのか。後悔しないようにするにはどうしたらいい?

「期間限定」であるからこその気楽さと、それを受け入れることの寂しさ。それまでの日常に投げられた小石は、体中、心の底まで波紋になって広がって、そして徐々に収まって消えてしまう。非日常の終わりを、安堵や復帰と捉えるか、祭りの後のもの哀しさと捉えるか。

飯を食って何かを話しても、それはきっとその場で雲散霧消してしまう。その場が楽しければいいのかも知れないけど、それが特別なら特別な分だけ、もったいなく思ってしまう自分が居る。「日常寄りの一日」にするのか「非日常寄りの思い出」にするのか。

日々の密度は日毎年毎に希薄になっていく。知らないことに触れる機会も減っていく。新しい楽しさが必ずしも日常の楽しさを凌駕するとは言えないけど、新しい楽しさには、新しい選択肢が出て来る。可能性は、新しい楽しさの方が絶対的に広くて高い。

僕達の残り時間は短い。後悔なんかしてるヒマない。必ずしも笑顔になれることだけが楽しいことじゃない。切なさだって「イイ思い出」に十分なり得る。「今」も「思い出」もどっちも楽しみたい。49歳のオレは、さらにどん欲でありたい。

 まぁ「なんかめんどくさい」って思う人も多そうだけど。

疲れるのはマイナス?疲れるのは嫌い?だったらなんで前日手伝いに来たの?疲れることより楽しいことが優ってれば何にも問題ない。疲れ>楽しいになったらダメ。でも人は飽きる生き物で、忘れる生き物。忘れるからこそ前を向ける。でもそれは前に何もなくても前を向きたいの?何もないなんて誰が決めた。でも繰り返される日常には、大抵何もない。「お疲れ様」とか「大変だったね」とか。楽しいが優っていれば何の問題もない。新幹線や宿泊費で何万も掛けて来てくれた人だって、「お金掛かって大変だね」なんて、言われたくないだろうし、後悔してたら僕に感謝の言葉を贈ったりしない。

飽きてしまうと透明になっていく。その人の前から存在感=存在意義が消えて、無価値化されてしまう。飽きられないようにしたいし、飽きないようにもしたい。紡がれた過去のストックには限りがあるけど、新しい視点には無限の可能性がある。過去の思い出はそれはそれで楽しいけど、飽きられないためにはそれだけじゃ足りない。視点を広げ、頭を回転させ、もっと遠くまで思いを投げろ。

「同窓会ロス」になってないのは、僕の中でまだ終わってないから。でも次々と周りのみんなは終わりにしてて、過去にしていく。引きずってるのは僕だけなのかな、と思う。ちょっとだけ寂しくも思う。ちょっとだけ、、、

 誰かを道連れにしたいと思ったりもする。

でもたぶん無理。僕はみんなと違うから。でも近い人は居るかも知れない。その人が付き合ってくれたら、しばらく延長出来る。楽しいことを延長出来るのは悪くない。

打ち上げで終わりなのか。もう一回くらい集まろうって話もあるけど、約束のない未来は存在しないも同じだ。具体的な日付を提案してくれたことが凄く嬉しかった。それで気持ちよくオサラバ出来ると思ってるかも知れないし、それでいいのかも知れないけど。

別に呼ばれたら普通に行くだろうと思う。今の自分はフットワークの軽さを感じてる。引きずってるのが重くて苦しい枷じゃなくて、風に乗る光る翼が僕を引っぱってくれている。何かを期待するわけじゃない。何かを期待させるわけでもない。刹那の笑みのために、それを選びたいだけだ。

 今の自分には、選択肢がある。

それは口にするかしないかと言う選択肢だ。黙っていれば、静かに、当然のように全てが流され、消えていく。そんなに時間も掛からない。でもまだそれを受け入れるのは惜しい気がする。だから、僕は口に出す。

 「またね」と。

その言葉は社交辞令じゃない。

・・・

その日は楽しみなのか。それで終わるとしたら、それは嬉しいことだとは思えない。そもそも何が目的なのか。話すことであれば電話でもLINEでもいい。顔を見るなら同窓会で見た。特別に何かしたいことがあるのか、会わなければ出来ないことってなんだ?

そもそも同窓会は楽しみだったのか。みんなに会うことは確かに楽しかった。だがそれはあくまで「その場」でのこと。事前にみんなと会うことを想像したか?電話連絡で聞こえてくる声に懐かしさを覚え、参加の意思を嬉しく思ったのは事実。だがしかし、そこから実際に会うまで彼らのことを考えたか?会いたいと思ったのか?

何か大きなトラブルが無ければいいとは思った。でも同時に何が起こっても24時間後には終わってるとも思った。終わってしまうことに寂しさを覚えたのは事実だけど、始まる前に、、例えば一週間前にどれほど自分がワクワクしていたのか思い返してみても、その感覚はついぞ思い出せない。さすがに直前はワクワクしてたけど。

楽しみにしていた人が、「楽しかった」と言ってくれたのは、間違いなく嬉しかった。その場のみんなの表情や、ちょっとした障害を物ともせず結果上手く回ってくれた、回してくれた運営にもとても感謝してる。僕は最初から写真を撮るつもりだったし、結果相応の結果に繋がったのは間違いなく楽しかったけど、それはフタを開けるまで見えなかったこと。会が始まる前に「楽しみだった度合い」はやっぱりそれほど大きく無かった気がする。

一つには前日から参加してくれると聞いていたある女の子に対する不安もあったかも知れない。「とんでもなく劣化してたらどうしよう・・・」。僕のことを毛嫌いされたらどうしよう。そもそも覚えてなかったらどうしよう。素直に楽しみに出来なくなるには十分だ。

でもいざ会ってみれば、何のこともなく当時のままの挨拶が出来る。年齢を忘れ、時間を忘れ、空気が30年、いや35年前に戻る。懐かしさではない、リンク=感情の直結を感じる。居心地がいい。

だからか、前日が始まってからは普通に凄く楽しかった。これまでみんなと進めてきた積み重ねが、ひとつひとつ花開いて、空気がオレ好みの色に染まっていくのがわかる。

 「コレだよな」

終わってしまうことなど考えない。その瞬間に出た選択肢は、「存分に楽しむ」か「無駄なく楽しむ」か。挨拶で気持ちを伝える。ポーズのリクエストに躊躇わない。校歌を気持ちよく歌う、、、。ステージに上がった100人以上の「オレたち」。楽しさは、きっと伝わって、そして、自分の中からも湧いてきていたはずだ。

・・・

ただ飯を食う。それだけのことなのか。そのために呼んで、そのために会うのか。そんなわけはない。時間は平等に流れるが、その使い方次第で、光にも闇にもなる。光になる使い方がしたいなら、そうなるように心構えをし、準備をしなければ。

 光に繋がる準備は、それすらも光を放つはずだしね。

あと5日。世界が終わるまであと5日だとしたら、、、。そんな気持ちで迎えたい。大げさなんじゃない。そこまで強い気持ちを抱いていたわけでもたぶんない。

 ただ、今のオレがそれを正解だと思うから。それが「楽しいチョイス」だと思うから。

つってもお金もないし、知識もないし、お酒も飲まないから、店はサイゼでいいと思ってるけど!▲▲▲▲。

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