中二病
「厨二病」でもいい。最近高校の旧友としゃべってて、よく出る単語。
だがしかし、意味はぶっちゃけ間違ってる。
と言うか何を持って間違ってるとするのかも曖昧であるわけで、「本来の意味」を、この言葉を世に出したと言われる伊集院の考えたものとするなら、既に世に出回ってる意味自体が「本来ではない」わけで。
となれば、この「中二病」という言葉に、どんな意味を被せようとも、それは使用者の自由とも言える。この言葉の持つ語感から、好きにイメージを膨らませ、好きに使えば良い。それを揶揄する者が居たとしたら、それこそがまさに「中二を患っている」とすら言えるだろう。
ちなみに伊集院のニュアンスはこんな感じ
・大人は汚いとか言い出す
・本当の友達を探し始める
・コーヒーに砂糖を入れるのが恥ずかしくなる
・捜し物は鞄の中にも机の中にもないと絶望する
・脱スポーツ刈り宣言をする
・「B組の山本って金払えばやらせてくれるらしいぜ?」とか言い出す
・売れたバンドを「売れる前から知っている!」とムキになる
・洋楽を褒め始める→さらにそれに同意し始める
・軽い隠語(アマゾネスなど)が付いている番組を漏れなくチェックするようになる
つまり元々は「リアルな中学二年生が患う思春期全開の痛い症状」こそが「中二病」だった。
しかし、紆余曲折を経て今ポピュラーだと思われるのは、
妄想や空想で自分だけの世界を作り上げ、その世界にどっぷりと自分だけで浸ってるヤツ、、、と言うところか。
痛い点では前者も後者も変わりはないが、後者は特に「リアル中学二年」に限定したものでもない。もっと言えば、伊集院自身「今でも中二病」と言ってたように、「中学二年がやりそうな痛い行動を今でもしてしまう」ことも指すわけで、つまりは、
総じて「中二っぽい思考回路や言動、想像をすることを中二病と言う」
と言える気がする。なので、友達との会話の中で、「文化祭の前日のような喧噪」にワクワクする感性や、「修学旅行の夜好きな異性の名前を言い合う」みたいな行動を、歳を重ねた今でもやってしまったりすることも、つまりは「中二を患ってる」と言えるのかなぁと。さらに言えば、
自らの精神的な成長が中学生、高校生時代で止まっていて、同年齢の言葉や発想に違和感を感じたり、みんなと自分の常識に温度差を感じたり、、、
楽しい、嬉しいと感じるツボがいつの間にかみんなと違ってきてることに、今更のように気付いて愕然としたりする。
夜中に学校のプールに飛び込んだりは、、さすがにもうしない。てか、そのレベルになると「リアル中二」だった頃でもしたことはないけど、例えば初詣を夜中の0時に行ったり、夜通し長電話をしたり、友達の打ち明け話に涙したりは、
今はしないけど、ちょっとしたいなって思う。
たぶんアラフィフの既婚者は、自分のことをブサイクだとかデブだとかで、過度に自虐したりしない。まるで中学生の頃のように「自他の」ルックスを気にしたり、ドキドキしたりソワソワしたりしない。せいぜい身なりを整えるとか、内臓脂肪を気にする、人間ドックに引っかからないように健康に気を付ける、、、つまり、内側の方が、興味の対象になっている気がする。
まぁここの読者諸氏にどれだけアラフィフが居るかはわからないが。
・・・
自分がイレギュラーなのは、なにも今日に始まった話じゃない。言ってしまえばリアル中二どころか、リアル小二の頃から、自分は他の子とは違ってたと思うし、違ってる=犯罪者予備軍とレッテル貼られるのは心外だけど、少なくとも友人知人に「アンタは変わってる」と言われまくる程度には「変」だった。
だけど、いざ同窓会をやってみて、いざ百人以上の旧友とコンタクトしてみて、
改めて自分がマイノリティであることを痛感した。
自分がいかにガキで、青くて、甘ちゃんで、、、それこそ、
中二を引きずってるかを痛感させられた。
結局インドアな趣味をずっと続けてると、「大人になる過程で本来ならば補正されるであろうこと」が、そのまま継続してしまったりする。ある面では、子供たちと価値観を共有しやすい「子供のままの心」であったり、良く言えばピュアな、普通に言えば未成熟な、悪く言えば無責任な考え方を維持してたりする。
ゲームとアニメと映画は、人間の成長にはあまり関係しない。
もっとも、ここで落とし穴になるのは、「人間の成長とはなんぞ?」「人間は成長しなければならないの?」と言う命題。それこそがまさに「中二力」なのかとも思うが、いわゆる年相応の判断力や、「覚悟」は、人が永遠に生きられない以上、不可欠なものという気がする。転んで足をすりむいた時、小さな子供は泣きじゃくるが、ある程度大きくなれば、泣かなくなる。それと同じように、いつか必ず迎える人生の終わりを受け入れるのに、最低限の「人としての成長と老い」は不可欠、、、
それはわかるのだけど、頭の理解と気持ちの理解がシンクロしないことはままあるわけで。
・・・
当然この病に明確な治療法はない。人に寄って症状がまちまちだし、そもそも病気と言うほど痛みや苦しみがあるわけでもない。だったらクリスは何が言いたかったんだよ、って話になるのだけど、、、
伊集院の言う中二病でも、世間で言う中二病でもない、ただ、年を食っても学生時代の気持ちが抜けきらないと言うだけの中二病患者は、同じ病気を患っている者に強い親近感を覚える。
僕はあまり孤独を感じたりしないタチだったけど、人とのコミュニケーションの楽しさを再認識してしまうと、以前は感じなかった孤独を意識するというか、「もてあます」ようになる。具体的に言うと、ゲームや映画などの一人遊びに、何か物足りなさみたいなものを感じるようになる。
たったひとりでも、僕はかなり想像力たくましく、言葉を紡ぐのも大好きな人間だけど、やりとりによってさらにそれが面白おかしく、楽しさをブースト出来たりすると、「ひとりには限界があるなぁ」と思わせられる。どこぞの監督が、「映画は観客に観て貰って初めて完結する」みたいなことを言ってた気もするけど、今更ながら、
自分だけでは、自分の求める最高の答えは出せない
ことを、最近感じたりする。たかが個人LINEでも、読み返すとすごく楽しいんだよね。それこそ自分で▲(僕のブログの自己満足指数)を付けるなら、6点とか8点とか付けたくなるほどに。掛け合いのテンポや、要所要所で入る合いの手が、心地よくスパイラルを加速する感じ?
もっと話をしていたいと思う感じ。
・・・
人生は短い。特筆する病気や事故がなくても、当たり前の話歳を取れば取るほど、残りの余白は少なくなっていく。ゲームや映画の話題が多かったブログだけど、ベースになっているのは、「僕自身が書きたいことを書く」と言うことだ。そもそもでなければ同じゲームの話題を500回も書いたりしない。やってない人には「いい加減にしてくれよ!」ってなもんだろう。
他の誰が読んでも楽しめないかも知れないけど、今のブームは友達とのコミュニケーション。お金もそれに使いたいって思うし、何をするにしてもしないにしても、
後悔だけはしたくないと思う。
オレの人生は、常に後悔しない選択の積み重ね。そうありたいと思うし、そうするつもり。これまでもこれからも、
・・・死ぬまでそうでありたい。
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