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2020年5月26日 (火)

ハッピーバースディ俺

※書いたのはちょっと前

「フィフティ」である。今ハタチそこそこの若者は、自分が50歳になった頃を想像したことがあるだろうか。大きな事故や病気をするでもなく、職にあぶれるでもなく、普通に働いて普通に生きていれば、多くの人はその日を迎える。思い描いたことがない年齢であるがゆえに、違和感などあろうはずもないのだが、子供の頃見えていたじいさん達より、とんでもなく中身は幼く、不変に思えるのはなぜか。自分だけなのかとも思うが、それならそれで良い。個性的であり続けたいという思いは、今も昔も変わらないからな。

※↑ヘッダの文章。ぶっちゃけちょっと長いけど

祖父は54歳、父は73歳で他界している。このブログが始まったのが2005年で、今年で15年だから、もし親父と同じ年齢でこの世におさらばするまで続けるとしたら、既に折り返しは過ぎていると言うことになる。祖父と同じならあと4年しかない。東京オリンピックの次のオリンピックまで生きてないかも知れない年齢だ。

 想像出来ない。自分が死ぬと言うことが。

齢70も過ぎれば、きっとそう言う未来を描く頻度も上がるとは思う。例えば定年退職し、日々の暮らしが激変するような、例えば連れ合いに先立たれるとか、両親とも他界し、友人の葬式に顔を出すことが増えていったりすれば、「そろそろ自分の番なのか」と思い始めるだろう。

 自分が一番乗りになる可能性だって多々あるのに。

「死」と言うのは、存外身近にあると僕は思う。ほんのちょっとした賽の目によって、生死を分かって来たことが、これまで何度もあったと思う。地震、台風、交通事故、ウイルスだけでなく、ガンとか糖尿とか、死ぬ可能性はいくらでもある。今日も昼寝中に地震があった。軽いものだったけど、僕の頭の上には大量のレゴが積まれている。打ち所が悪ければ、それが致命傷になることだってあるだろう。大地震や川の決壊なら家ごと崩れ落ちてしまうかも知れない。

幸いにして自殺したいと思ったことは一度も無いが、これから先も考えずに済む保証はない。僕は基本前向きでポジティブな人間だが、それが許されなくなることもきっと在ると思うし。

・・・

子供の頃、冗談交じりに母が言った。「このプラモデルは老後の楽しみにでも取っておけばいいよ」。実家の押し入れには未だ組まれていないプラモがそれなりに大量に積まれている。マンガに関しても、店の二階の倉庫にプラケースに入ったまま10年以上手が付けられていないものが大量にあるし、今住んでる家にあっても、セガサターンやPCエンジンなど、現状起動がままならなくなったゲームソフトが数百本はあるだろう。

 これまで楽しんできたものを、残りの人生でもう一度楽しむことは、たぶん出来ない。

時間的なこともあるが、若い時よりそう言う過去を掘り起こす行為そのものに煩わしさを感じていることの方が大きい。比較的最近の「XBOX360」ですら、果たして起動することはあるのか。結構傑作も多かったのだけど、、、。

・・・

「楽しい選択をしたい」と言う思いは、今も変わらず抱いている。面倒であっても楽しいこと。お金が掛かるとしても楽しい事を選びたい。その「楽しい事」は、必ずしも「新しいことではない」。別に一度遊んだゲームをもう一回やったっていいし、同じ映画を何度も見ていい。忘れっぽくなる一方だから、ドラマティックなシーンで何回も何回も涙を流すことだって出来てしまう。

でもどこか、「それでいいのか?」と言う思いが湧いてきたりもする。

昨今僕はFFブレイブエクスヴィアスというゲームに傾注し続けている。そこで知り合った友人も少なからず居て、日々没頭するに値すると自分で思えるイベントやルーチンワークを繰り返しているのだが、

 当然それをしていることで「出来たかも知れない何か」が出来なくなっている。

もしかしたら新しいジャンルのゲームかも知れないし、ヨーヨーやレゴなどの非コンピューター系の娯楽かも知れない。釣りかも知れないし鉄道かも知れない。スーパーカーかも知れないし、風俗かも知れない。

 でも時間は刻々と、そして残酷に過ぎていく。

自問自答をすることなく、毎日はガンガン加速していく。きっと僕が大好きだったマンガ家や監督、ゲームデザイナーや歌手も、僕より年上な分だけ先に居なくなっていくだろう。中には僕より年下であっても離別は頻度を上げていくだろうし、これまた多くの人がそうであるように、

 自分の思い描いたのとは別の終末を迎えてしまうのだ。

・・・日々を大切に生きなければならない
 
・・・「大切」とはどんな生き方なのか

・・・・・・・・・振り返った時、後悔したくない。

「あんな50歳を過ごすべきではなかった」などと思いたくない。

・・・何かを残したい。

僕以外の誰も見ないとしても、自分が生きた証が欲しい。

・・・まぁブログもその一つなんだけどさ。

「何か」とは何か。「四十は不惑」と言われるが、

 五十は「知命」と言う。

知命とは自らの天命、役割、生まれてきた意味を悟ると言う意味らしい。

 何か自分が生きた証を残したいと思ったのは、まさにその年齢だったからか。

ま、ブログでもいいけどな!みんなも50歳になったら何か残そうぜ!

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