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2021年9月17日 (金)

ゲームとプラモ

こういう事を思う度に、「自分はゲームが好きなんだなぁ」とシミジミ実感する。インスタとかでもたまにゲームネタを投稿してる人とか、
※「魔界村」のパロディで、アーサーと魔王が握手してる「和解村」のカセットとか
思わず前のめりで「いいね」してしまったりするし、

 投稿されたグラディウスの動画をつい全部見ちゃったりするし。

コンピュータゲームというのは、黎明期「究極のひとり遊び」という位置づけだったと思う。トランプや麻雀、囲碁でも将棋のように複数が必要になるわけじゃない、屋内でひとり留守番させられるような、両親共働きの家庭で、深く強く楽しめる娯楽こそがコンピュータゲーム、ファミコンが大ブレイクした大元のトリガーだったと思う。

そしてそんなゲームの面白さの特異性は、映画やアニメとは違う「双方向性」。かっこつけて言うとインタラクティビティ?ただ見たり聞いたりするだけの受動的な娯楽から、こちらがアクションを起こしそれに反応があるという「やりとり」でもあった。もっとものちのちは「ダンスゲームのように人に見せるプレイ」や「ストIIのような対戦スタイル」「MMORPGのような集団プレイ」など未来に繋がっていくのだけど、ともかく最初の頃は、

 「ひとりでインタラクティブな楽しさを提供してくれる娯楽」

がゲームの魅力であり人気の原動力だったと思う。

もちろん学校で友達とそんなゲームの話をするのも楽しかった。でもファミコンの事実上の前身であるゲームウォッチにも「ひとりでインタラクティブ」はあったわけで、「友達と遊んでも楽しい」という要素も、ブレイクには不可欠だったと思う。
※ゲームウォッチでは友達が遊んでるのを楽しみづらい

 それって、今僕がハマってるデジラマと結構な共通点がある気がする。

中学時代ロードランナーのマップエディットで「友達がクリア出来ないような面」をがんばって作って学校に持っていき、
※方眼紙に手描きで描いたマップ
翌日あっさりクリアされて「ぐぬぬぅ」となりつつもスゲェ楽しかったのと、

 自分で素材を集めて1枚の写真を作り、見ず知らずの誰かからのコメントやいいねに一喜一憂するのは、

 ほとんど同じ感覚、同じ快感を刺激されてる気がする。

ゲームから足を洗っているように見えて、実際にはマウスを動かしている、つまり「コントローラーを握ってる」のだし、スーファミの「マリオペイント」だって作った物を録画してまでして友達に見せたりもしてた。

 「デジラマのゲーム性」は、存外「コンピュータゲームライク」なのだなぁと。

やればやるほど技術が向上していく感じもあるし、慣れてきて生産性が高くなるのは経験値稼ぎのルーチンワークが洗練されていくのに酷似する。ちょっとしたひらめきでアクションゲームにおけるボス攻略が劇的に楽になったり可能になったりする点も、日常の中にインスピレーションの種を探すのに似てるように思う。

 なんだ、やっぱりゲーム捨ててないじゃんオレ。

今でもFFBEは普通にガンガンやっている。ブログのネタにするほどの変化やドラマが無いので表には出してないけど、日常の占有時間としたら、ぶっちゃけデジラマと同じかそれ以上を割いていると言っても過言じゃない。

例えば、釣りやドライブや旅行、キャンプのようなアウトドアな趣味に興じる場合は、きっとその限りじゃないのだと思う。体力的なこと、天候などの外的要因、「パソコンとモニターと自分」という、半径1m程度の空間だけで完結しない娯楽は、きっと「別の楽しみ、別の大変さ」がある。

でも、プラモとゲームは、存外その半径が狭い。人に寄ってはエアブラシで塗装する都合上、雨や曇りを嫌う傾向があるかも知れないけど、影響は前述のアウトドア系とは比べるべくもなかろう。もっと言えば、

 プラモ作りをさらにコンピュータゲーム寄りにシフトしたのが「デジラマ作り」

そう言えるかも知れない。

では、

それを真逆に歴史を逆行出来ないかと考えてみる。
※話は急展開だけど担保があって書いてるわけじゃない。気まぐれだ

まるで映画のようなゲームは、まるで実写のようなプラモとイメージが重なる。では、

 ファミコンのようなゲームを、デジラマで再現するとはどう言ったイメージになるのか。

「シンプルで楽しい」は、「わかりやすくて生理的な魅力がある」と言う事。わかりやすさとは、パッと見の印象であり、エモさであり、

 単純に写真(背景)の持つ魅力の強さ、プラモのかっこよさを引き出す合成。

振り返ってみれば、つまりは「大阪を歩くガンダム」がまさにそう言う作品だった。

ただ大阪の日常的な風景写真。そこに歩いてるだけのガンダム。手間もそれほど掛かってない。ガンダムの写真に関して言えば以前撮った物の再利用だ。

 でもいいねは1000を超えた。

写実的なデジラマはそれだけでウケがいい。写実的にするには太陽光で撮ったり、煽りなどの角度や、縮尺、ピントを合わせて行く必要があるものの、極端なエフェクトは全く必要ない。

 別にダンバインだってイデオンだって、現代日本の近所の日常の景色の中に居たら、きっと強いリアリティを放つと思うのだ。

ただの直立不動であっても、ヘタしたら塗装すらしてなかったとしても、

 「巨大なプラモが街中にある」と言う異質さは、たぶん僕が思ってるよりリアリティがあり、わかりやすい楽しさを喚起する。

以前インスタで見たパトレイバーのデジラマは、東京の、たぶん夜明け前くらいの時間だと思うけど、ただ道の真ん中に立ってるだけで、何とも言えないリアリティを醸しだしていた。もちろん作例自体のクオリティが高く、細かなディティールに説得力があった点も重要だけど、特に目立ったフォトレタッチをしてるようでもなく、「たたずまい」だけで、何とも言えないオーラを放っていた。

・・・

「ファミコンライク」を「低解像度」としても面白いかも知れない。デジカメ黎明期の画素数は640×480ドット程度だったと記憶している。今僕が目の前に扱う静止画背景には、その10倍×10倍、つまり100倍の精緻さを伴った写真すら存在する。

 だからと言って640×480ドットの写真は写真じゃないかと言えば、全くそんなことはない。

小さな写真にボヤけ気味のプラモであっても、

 もし本当に当時のものであるなら、そこにもしっかり楽しさはあるはずなのだ。

てか今遊んでも楽しめるファミコンゲームは絶対にある。
※メトロイドやゼルダ、ドラクエなど

ゲームとデジラマの楽しさに共通項があるのなら、ファミコンの楽しさをデジラマで模索するのも、あながち「無くはない」のかもと思ったり思わなかったりだ。

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