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2021年9月 2日 (木)

追われる生き方

締め切りとかノルマとか。目の前のお客様に急かされるケースもあるかも知れないけど、

 僕は追われる生き方が「嫌いじゃない」。

理由は至極簡単。

 追われないから。

僕は基本せっかちだけど、待つのが嫌いじゃない。

 自分の意志であるなら。

行列とか映画とか。でも不本意な待ち時間は嫌い。

 1秒でも。

だから家映画でテンポが悪いとすぐ10秒飛ばす。そのくせ好きなシーンはすぐに巻き戻して何回も見たりする。誰しもそう言うことはあると思うけど、比較するなら「過度な方」だと思う。

僕が抱える締め切りは、仕事では「チラシ作り」「給料計算」「シフト作り」などが定期的に訪れるもので、一番面倒なのはシフト作りだったが、最近は人手不足もあって自分で補填するようになったので、ある意味開き直れている。自分が倒れたとき潰しが効かないリスクはもちろんあるけど、コロナのご時世売り上げも悪いし、減らせる人件費は減らしたい。てか、人をたくさん雇ってる人なら、その苦しさも共感出来るかも知れない。

チラシは自分の挨拶文やタイトルに「創造性」を問われる。そこで頓挫することも無くはないけど、言ってもそう長い文でもないし、割と楽しんで書ける。こういうのが苦手な人は凄く多そうだけど、僕は得意分野だ。つまり締め切りには追われない。給料計算はただの作業だ。

プライベートでは、このブログの更新、インスタの更新、未だにやっているエクスヴィアスのオーブやスタミナ消化が主だったところ。残念ながら今期は追っかけてるアニメもなく、マンガは「ゴッドオブブラックフィールド」と、「こういうのがいい」「働かないふたり」「ワンパンマン」の4つだけ。以前はもう少し読んでたけど、スマホの更新と共に読まなくなった。あ、スパンが長いから忘れがちだけど「異世界おじさん」「姫様拷問の時間です」も読んでる。

僕が思うに、何かに追われる生活というのは、実は結構ありがたいんじゃないかという気が最近している。別にブログもインスタもやんなくていい。誰にも怒られない。仕事は当然のことではあるけど、、、

 今日15年以上勤めてくれたパートさんが辞めた。

週5日で1日7時間。当然僕とは違った「追われるモノ」がある。定番発注とか。

でも、辞めれば当然それらはなくなる。

主婦だから、朝起きるのが急に遅くなったりとか、日々の雑務が無くなるわけではないだろうけど、「ノルマ」の種類は間違いなく減るだろう。化粧をする頻度も下がるだろうし、もしかしたら1日に歩く距離も短くなるかも知れない。

追われなくなると言うのは、「誰かに」とか「何かに」という前置詞が付く。まぁ自分で自分を追い込むこともあるだろうから、それは他人とは限らないが、その何か(誰か)は、自分を必要としているものであって、

 「自らの存在意義」が自分を追い立てていると言えるかも知れない。

さらに言い換えるなら、「自分の価値」。自分に価値があるから追われる。家事をするのも仕事をするのも、自分で自分の文章が読みたいのも、デジラマを見たいのも、褒めて貰いたい場合も、楽しんで貰いたい場合も、

 自分に価値が無ければ、誰も(自分すらも)追い立てはしまい。

歳を取り、出来ることがどんどん減っていく。今は普通にキーボードも叩けるけど、指が満足に動かなくなる、視力がどんどん悪くなる、足が悪くなって出歩かなくなる、考えること、覚えることが苦手になっていく、、、出来る仕事も減っていくし、掛かる時間も長くなる。ミスも増える。

 つまり、自分の価値は経年劣化と共にどんどん目減りしていく。「追われる時間」と共に。

僕はせっかちなので、誰かに追われることがほとんどない。でも、自分で自分を追い立てることは凄くある。こなすべきノルマは、優先順位を付けて、確実にサクサクと消化したいし、大抵の場合はしている。てか、

 でなければ何年もブログは続かないし、インスタの更新だって途絶える。

つまりこれは、

 自分が自分を好きだ、ってことなのだ。たぶん。

自分がやっていること、自分が生み出したモノが好きだからそれを生み出す作業を止めないし、急かす。他の誰かが褒めてくれなくても、ブログの更新は止めない。それは僕のためだから。

誰かが僕の生み出したモノ(最近はデジラマ)を「いいね」と言ってくれる。そのいいねが僕を追い立てる。更新を止めたくないと思わせる。価値があると言ってくれている。生きていていいと許して貰えている。

・・・

僕は寺沢武一先生のコブラが大好きだ。好きなシーンはいっぱいある。「マジメになっちゃダメだ。その方が上手くいく」ってのも座右の銘並に好きなセリフだけど、

 常人ならば数分で発狂してしまうという「何も感じない世界」に閉じ込められたコブラが、数時間だっけな、、、閉じ込められた後、全く何事もなかったかのように出てきてパンチを食らわす。

 「オレの中ではエイトビートが鳴り続けてたからな」
 ※うろ覚え

外界からの刺激が何もなくても、自分の中で「自分を刻む」ことは出来る。自分で自分を評価する。自分で自分を楽しむ。

 人間は考える葦である。

人は自然界において最も弱い「葦(あし)」に過ぎない。が、思考によって世界を包むことすら出来る偉大さが生まれる、、、みたいな意味。

僕は考えるのが好きだ。毎日のように、「何かを考えなければ」と考えるほど考えるのが好きなのだ。考えることで何が出来るのか、何を今考えるのが一番大事なことなのか、一番楽しいことなのか。

 僕という葦は、僕という人間を追い立てる「考える葦」だからな。

・・・

ただ一方で、プレッシャーを感じすぎる愚かさを否定したりもする。「マジメになっちゃダメ」なのだ。考えはするが、ふさぎ込んだりはしない。気楽にやって気楽に生きていく。

 もちろんそれでダメなときもあるだろうけど、そのときは、、、

 笑ってごまかすさ byコブラ

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