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2021年10月16日 (土)

生き方について

感謝と覚悟はつくづく重要だなぁと思った。

お客様に、日々の食事に、健康に、コロナでないことに、お財布にお金が入っていることに、ジュースを飲めることに、糖尿病じゃないことに、卵の黄身を食べられることに、布団に眠れることに、趣味があることに、その趣味を褒めて貰えることに、映画が見られることに、マンガが読めることに、次回が楽しみなアニメがあることに、目が見えることに、耳が聞こえることに、キーボードを打てる指があることに、スマホを持っていられることに、スマホの画面が割れてないことに、歩けることに、車を持っていて運転できることに、家族が健康であることに、秋の風が気持ちいいことに、特に害虫に悩まされていないことに、かみさんに洗濯してもらえることに、気軽に電話やLINE出来る友達が居ることに、

 楽しい事を楽しむことが出来て、面白いことに笑うことが出来て、切ないシーンで涙を流すことが出来ることに、

 感謝する。

「覚悟に勝る決断無し」とインスタの格言で読んだ。それもまた真実。休日の予定だったが、パートが「親戚が会いに来るから」と言う程度の理由で休みたいと言う。だからそれを埋める為に出勤することになった。

 でも覚悟があればさしてショックじゃない。

働ける健康と、暮らしていける対価があれば、それを支える為の仕事は当然だと思うし、そんなことに苦言を吐くなんて、罰(ばち)が当たる。もっと苦しく厳しい人はいくらでも居るのだ。本当に。

 まぁもっと気楽で自堕落な生活を送ることを許されている人も居るだろうが。

別に僕は自分がマジメな人間だなんてこれっぽっちも思ってない。でも、やる必要があることはやるし、躊躇いもない。決断は、たぶん日本人の平均よりはかなり早く出来る方だと思う。迷ってる時間が惜しいからね。

インスタと言えば、もう一つ心に響いた格言があった。うろ覚えだけど、

 「相手を待たせると言うことは、相手の命を奪っていると言う事」

みたいなヤツ。一緒に遊ぶにしても、電話をするにしても、相手が居る行為は、すべからく相手の人生、相手の寿命を占有していることになる。相手にとっての自分もそう。

よく「自分のことばかり話す人」は、「悪い」みたいなレッテルが貼られがちで、「聞き上手」こそ人格者のような評価に繋がったりするが、僕はそれを大いに否定する。

 「待つ」ことの「悪質さ」を軽視するな。

僕が話すのは、時間が惜しいからだ。相手のレスポンスを待つのはお互いの時間を、命を、「何も無いままに」消費しているのだ。僕が話すことで相手が話したいことが話せないストレスを感じる可能性もあるだろう。だが、

 LINEやチャットなら、ガンガン書けばいい。言えばいいのだ。

僕が話すことがイヤなら、サクッと関連を断てばいい。別に見ず知らずのネット越しの知り合いが、いつの間に親しくなっていつの間に距離を置いたとて、何が変わるわけでもない。

 僕は密度の濃い時間が好きなのだ。

 僕は僕の「時価」を高めたいのだ。

 僕のブログは「クリスの濃い部屋」なのだ。

・・・

会いたい人が居るなら今の内に会っておけ、行きたい場所、食べたい物、見たい物、聴きたい曲、やりたいこと、

 望むことがあるなら、やれるうちにやっておけと言う。

いつかそれが出来なくなる時が必ず来るから。

ふむ。

会いたい人はひとり居る。ひとり暮らしをしていた時に一緒にゲームをやっていた伊藤(たぶん名前はタダシ。記憶は曖昧)。だが彼に会う方法はないので、「既に出来なくなっていること」のひとつだ。てか、

 24歳くらいで静岡から愛知に戻ってきたのだけど、彼に会えたのはたぶん「2、3ヶ月くらいの間」だったと思う。彼は大学でその地を離れる予定だったし、僕が辞めたのは10月頃だったから。

「どうにもならないことはどうなってもいい」「出来ないことを気に病んでも始まらない」。

 別に、望むことがあっても、それが出来なくなっても、そのことにストレスを抱かないのなら何も問題はないのだ。

行きたい場所もない。食べたい物は無くはないけど、これもたぶん食べることは出来ないし、そこまでの熱量じゃない。見たい物や聴きたい曲も別段今は無い。25年くらい前にスンゲェ聴きたくなった曲も、当時程なくして聴くことが出来たし。あ、一曲ある。

 でも歌手も、歌のタイトルも、歌詞すらもわからない。

ひとり暮らしをしていた5年ほどの間に聴いた曲で、かなり好きだった。でも「どうしようもないので求めない」。

昔作ったプラモが実家に置きっぱなしになっていて、「もう一度見たい、手に取りたい」と思っていた。でもいざそれを叶えたら、

 タバコのヤニにまみれて、見るも無惨な姿になっていた。

それならば「美化された記憶の中に置き去りになっていた方が良かった」。

昔遊んだゲームで、今はもう遊べなくなったもの。でも何とか掘り出して接続して見たら、

 あまりにも画面が汚くてガッカリした。

ハードだって「動くか動かないかわからないから、動かそうとしない。動かそうとしなければ、永遠に"動く可能性が残ってる"」。ただ、

 何かをきっかけとして「動かそうとした」時、それが「動いた場合」のカタルシスは確かに存在する。

まさかドリームキャストが動くとは。セーブファイルもそのまま残っているとは。コントローラも怪しかったけどなんとかなって、当時凄く好きだったゲームは、、、

 見た目がすごくしょぼくなっていて、ほんの少し遊んだだけで止めてしまった。

 それでもかみさんや長男がタイピングオブザデッドを楽しんでるところを見られたのは、結構な嬉しさを僕に与えてくれた。

やりたいことが必ずしも自分の期待に応えてくれるわけじゃない。食べたい物が美味しいとは限らないし、会いたかった人が当時のままなわけもない。いろいろなことや物は、時を経て様変わりしている。こちらも変わっている。気付かないままの方が幸せなことは凄く多い。無理することなんて無い。期待すればするほど裏切られる可能性も高まる。

 小さな幸せを噛みしめることは、大きな幸せを掴み損ねるかも知れないが、大きな落胆をすることもない。裏切りも無い。

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