残る事の意味
毎度同じような話を書いている気がするけど、書きたくなったのだからしょうがない。
昨日の夜、世代別の歌番組をやっていた。20歳、30歳、50歳くらいの世代別にヒットした曲を、映像と共に紹介してくれて、
ああこれはいいなぁ
と思うようなものが結構あった。具体的には、
・ライブ音源やライブ映像で、一曲あたりの尺が長め
・最近のヒット曲も昔からのスタンダードナンバーも「上層部」だけなので耳障りがいい
・特におじいちゃんおばあちゃん世代はカットしてる
なので、演歌とかは全然なく、さらに言えば、若手の女の子代表が、
顔は見たことがあるけど名前は知らない。でも、服がエロい。
これだけでなんかこう、、、「ありがとう」って感じになった。
でその瞬間10分ほど見て、ふと「今これに費やしていいのか?」と疑問が去来。録画してテレビを消した。ちなみにM-1も同時に録画はした。
CMが飛ばせないと人生を、命を、浪費してる気がするのだ。
もちろんその間を埋める何かがあればいいのだけど。
・・・
スマホのマンガアプリも相変わらずよく読んでいる。面白くてキュンキュンするようなラブコメもあり、課金して続きを読もうか、動画を見て1話余分に見ようかと揺れる。
これを脳内に保存したい。
言葉が悪いか。
しおりを挟んで忘れないようにしたい
面白い、楽しい、幸せな気持ちになれるのに、それが数時間後には全てリセットされ、「曖昧な印象」だけが残る。それが凄くもったいない気がする。
マンガを読むための動画を見るにしても、面白そうなゲームならまだ許せる、、そう思う一方で、実際はそれすらも「見合ってない」のではないか。こんな使い方をしてしまっていいのか。
例えば1話60円。動画1本30秒。
「命30秒は60円の価値があるのか」。
例えば、
「願い事をひとつ叶えてあげるから、あなたの寿命を1年ちょうだい。ただし寿命を延ばすとかはNGね」
こんな提案を悪魔とも天使とも取れる何者かがしてきたら、あなたはその提案を受け入れる?
僕はNOだ。
一旦その言葉の主が、「信じられる相手」であるとして、さらにその言葉にそれだけの力があるとしてでも、答えは変わらない。なぜなら、
その契約には矛盾があるからだ。
もし僕の寿命が一年以内で、さらに僕が「笑顔で老衰」を希望した場合、その願いは「叶いようがない」。つまり、「寿命を延ばすのがNG」と言うことは、「老衰したいと言う希望がNG」ということになり、
この提案そのものが破綻しているこということになる。
では「笑顔で老衰」以外の願い事なら?
そんなものに1年の寿命を払う価値はない。
大金持ち?美人と恋仲?宇宙旅行?安心?安全?安定?今後凄く大変な病気を患う日がもしも来たとしたら、そのときは「あのとき命に関わるような大病をしない」をお願いしておけば良かったと思う日が来るかも知れないけど、それとて「寿命が1年短くなる」とトレード出来るかどうかは怪しいものだ。
時間の価値は、絶対的であり、最重要なものなのだ。
子供の頃から薄々感づいてはいた。でもこの歳になってその重みがさらに増していることを痛感する。
浪費してはダメなのだ。
でも現実には、
浪費してしまう。
と言うか、
消費してしまう。
消費とは、「使い尽くして無くすこと」という意味らしい。「何もなくなってしまう」。何も残らない。残さない。残せない。
こうしてブログを書いている行為は、「消費」ではなく「生産」だ。デジラマ作りも生産。プラモももちろんそう。ゲームやマンガや音楽や映画も、感想を言葉にしなかったとしても、その記憶を生産していると言える。
記憶が生産されていれば。
子供の頃からいろんな経験を積み、記憶、思い出がたくさん積み重なって今の僕がある。音楽やアニメや、プラモや、旅行とかもそうだ。「物より思い出」とは日産のコピーだったか。あれは本当に秀逸。
特に子供の頃にはその言葉は真実だと思う。
だがしかし、「それが残らないとしたら」どうか。
記憶を生産しているつもりが、「ただ摂取しているだけ」で、記憶や思い出にならずに消えていくとしたら。ブログやプラモ、デジラマのように、形として残るものではない、ただ脳内にだけ「一時的に保存されるだけの希薄な情報」であったら、、、。
その瞬間が楽しければそれでいいという考え方も確かにある。その熱量が強ければそれもまたいいとも思うし、そもそも高い熱量であればいつもと違って記憶にも刻まれるだろう。だがしかし、日々の暮らしに組み込まれているバラエティ番組やネットマンガのそれはどうか。果たして「そう」なっているか?
いないだろう。
これも誰かとのやりとりならまだ違うのかも知れない。電話したりチャットしたりしてコミュニケーションを取り、笑い合う時間。たとえそれが刹那的に消費されるものであったとしても、自分とは別の誰かの中には消費されずに残るかも知れない。残らないかも知れないが。
・・・
最近昔の歌を良く聴く。デジラマ作りに際し、BGMとして流しているのだけど、この数日で気付いたことがある。
好きな歌、聴きまくっていた歌に、飽きつつある。
もちろんどんな歌でもいつかは飽きる。それが中学や高校の思い出の歌、思い出のシーンで流れていた歌であっても、
度を超したペースで摂取し続けると、そのメロディに対する「新たな1ページは無くなる」。
そして、日々の加速する時間の中で、「リアルタイムだけは同じように流れている」。体感が、例えば1時間程度であっても、実時間が5時間だったら、5時間の摂取をし続けた音楽は、「これまで消費されてなかった部分まで消費していってる」気がする。あれほど好きだった歌に何とも思わなくなる。それも凄くたくさんの曲で。
だから、ごく稀にテレビとかで昔の曲で自分が「消費してない曲」を聴くと、凄く心が震える。冒頭で書いたテレビから流れてきたスピッツの「空も飛べるはず」。消費されてなかった。ライブはCD音源とは微妙に違っていて、
音に艶があった。
その瞬間時間が流れる速度が遅くなったのを感じた。
こないだの休みとか一日で4つもデジラマを作った。この日も時間の流れが遅くなったと思う。
でも今はもうそこから3日も経っている。
形骸的に、一日の中で「何かを生み出す時間」を決めて、その時間は必ず「生産に回す」ようにすればいいのか。でもそれすらもひとつのサイクルとして消費と同義に落ちてしまうのではないか。
手を伸ばせ。
振り向け
眠るな
・・・時に抗わなければ、時に抗うこと、すなわちそれが「残すこと」。たぶん。
つか「毎日を大切に生きる」ってどうすることなんだ?目の前に落ちた輪ゴムを拾う。のどが渇いたからジュースを飲む。風呂に入り、歯を磨き、着替えて眠る。
やはりもっとデジラマを作る「べき」だ。ネットから必死に背景を探し、面倒臭がらずにもっと写真を撮れ。空を、雲を、カンナ(愛猫)の写真を撮れ。
オレに残せる物、オレにしか残せない物を残すのだ。
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コメント
こんにちは
自分なら確実に取引しますね。自分の健康と妻の健康と。
たった2年と引き換えに自分の激痛がなくなって、妻が歩けるようになるなら、それはとてもとても安い取引です。
それはさておき、本当に創造的、建設的な時間が貴重ですね。常に何か学んであないと……と思っているのですが、最近はそれを活かせる立ち位置を得ることの難しさを実感しています。
ベンチャーや中小企業に、そこに投資してくれとは、なかなか言えません。この先は技術と管理の教育の方に重きを置きたいのですが……
承継すべき技術が失われてしまいまうような危機感を抱いています。
投稿: 月ノ丞 | 2021年12月22日 (水) 04時21分