独り言
みんなは今何歳?つってもこれをマメに読んでるのはO澤氏くらいかも知れないけど。
※O澤氏もたまにしか読んでない?
僕は今52歳。最近はドラクエやデジラマ作り、マンガを読んだり、たまに映画やアニメを見たりする。逆に言えばそれ以外のことにプライベートの時間を使うことはほとんどない。
それでいいのか?
世の中にはいろんな人がいる。戦争中の人もいれば、豪華客船で世界一周してる人もたぶんいる。その日暮らしのホームレスもいれば、親と同居して何不自由なく生活し、学校での生活に一喜一憂する高校生もいるだろう。
時間の流れる速度は一定ではある。小学生の頃も今も、1年は変わらず1年のはずなのだが、歳をとるごとにその体感スピードはどんどん加速して、今では本当にあっと言う間だ。ドラクエ3の発売を待ち焦がれ、ゲームビデオを買ってワクワクしまくっていた頃、、、果たしてあの時「待っていた」のは何日間だったのか。
僕は今割と多忙だ。と言うか、僕にはヒマな時間などない。トイレに入る際、それがたとえオシッコであっても、スマホを持ち込まなかったことを軽く後悔するくらい、
寸暇を惜しんでヒマを潰したい男だ。
一方で体調はあまり芳しくない。ワクチンを打ったあとの後遺症なのか、ただの鼻風邪なのか、はたまた花粉症か。理由はわからないが、毎日のように首の後ろの辺りがじんわりと痛くなって、バファリンを飲んで強引に抑え込んでいたりする。
そのくせ痛みが消えると普通に仕事も出来るし、ゲームもデジラマもする。
布団の中で「甘い生活」を読んだ。既に何回読んだかわからないほど読んでいる。回数だけなら、ヘタしたらドラゴンボールよりも多いかも知れない。僕が好きなマンガの歴代ランキングを付けるとしたら、間違いなく上位5作には入るだろう。
今読んでも面白く、以前はほとんど気にならなかった一言に「このセリフが痛快なんだな!」とあらためてニヤリとすることもある。
僕の余命がどのくらいあるかは当然わからない。今のところ医者に「あと1年」と言われたこともないし、言われる予定もない。
程なくその日が来てしまうかも知れないし、10年、20年、ヘタしたら30年先かも知れない。
でも毎日がさらに加速度を増していくとしたら、30年先ですらそこまで遠い未来とは思えない。生まれてから小学生を経て中学生になった13歳から、その30年後の43歳を考えたら、
とんでもない長い時間のように思えるけど、
これからの実際は絶対に違う。
明日も甘い生活を読むのだろうか
明日もデジラマを作り、ドラクエをプレイし、お菓子を食べ、ジュースを飲み、運動もせず、
ダラダラと毎日を過ごすのだろうか。
僕は別に他の人と比べて、、、「他の人」という表現は非常に難しいが、少なくとも自分が認識し、イメージする自分以外の全ての人と比べて、人生を無駄に消費しているとは思っていない。
昨日は「500作目」のデジラマを投下し、僅か一晩で数十人の人から「スゲェ」とか「かっこいい」と褒めて貰えた。いいねは保存依存なのでそこまで伸びはしないだろうが、やっぱり褒められるのは嬉しいし気持ちいい。
今52歳で、損得抜きで人から褒められる人がどれほどいるか。
それもこれだけたくさんの人から。
少なくともドラクエをプレイしているだけなら、甘い生活を読んでるだけなら、他の人から褒められることはまず無い。お菓子を食べてもテレビを見ても、映画に行って感想を書いたところで、僅かな共感が得られこそすれ、褒められることはないだろう。
「トップガン行ったの!?かっこいい!」
とは言われない。まぁ百歩譲って、
「クリスさんに勧められて見に行ったら凄く良かったですありがとう!」
はあるかも知れないけど。
別にフォロワーの数、いいねの数、コメントの数、褒められる回数が人間の価値を決めるわけじゃない。たったひとりでも、「心の底から心の底に」響く言葉をやりとり出来れば、数よりも価値がある可能性は捨てきれない。
僕も同じようにイイと思ったポストは褒めるし、保存したりもする。「傷のなめ合い」「自己満足するための場」と言う見方もあるかも知れないが、
他の人と接点がある人生と無い人生なら、前者の方がより強く生きた証になるとは思う。
僕はコミュニケーションが得意だと思っている。文字だけじゃなく会話においても、相手がお客様であれ店員であれ、バイヤーであれ友人であれ、引っ込み思案で内気でボソボソとしか話せない「見た目弱い」人間ではない。決して身長が大きいわけでも顔がいいわけでもないが、
いきなり、ほとんどコミュニケーションも取ってなかった人のプラモの写真を使って、デジラマにして送りつけたりするのは、
僕以外で出来る人はまず居ないと思う。
自分で言うのもなんだけど、僕の一番の武器は、社交性の高さだと思う。
・社交性
(1)人とのつきあいを好む性質。また、人とうまくつきあってゆける性質。「―に富む」
(2)社会を形づくろうとする人間の特性。社会性。
小学3年の時に担任から「協調性がない」としこたま言われまくったヤンチャな男子とは思えないが、言っても「協調性=社交性ではない」。友人知人に合わせることは出来なくても、友人知人を巻き込んでコミュニティを形成することは出来た。僕は特に小中学生時代友達が少ないと感じたことは一度も無い。
まぁ小売業を営む親の影響も多々あるとは思うけど。
余談だけど、長男や娘が僕ほどの社交性を持つに至らなかった経緯の一つには、僕の幼少期、自宅と店舗がほぼ同じだったことが大きく影響していると思う。学校から帰るのはお店の店内であったり、母親にビンタされながら怒られてる最中に、お客様からの電話で手のひらを返すような応対をするところをつぶさに見てきたからこそ、言葉遣いや、ある種の社会性の重要さを学んだ可能性が高い。
まぁどちらが良いと言う話ではないのかも知れないが。
ともかく、それが才能であれ経験であれ、自分の持つスキルを活かしつつ人生を彩っているのが、僕にとってのインスタでありデジラマ。ただ、
対人の娯楽は、スタンドアローンの娯楽では得難いカタルシスがある一方で、エネルギー消費も相当大きい。
嫌ではないのだけど、たくさんのコメントに全て返事をするのは、やっぱり相応に疲れる。クリエイティブな趣味を毎日継続するのも、少なくとも完全にお膳立てされたドラクエを遊ぶのとはワケが違う。
もしかしたら寿命を縮めているかも知れない。
・・・楽しくて濃密な短い人生と、穏やかで緩やかな長い人生。
望みは「楽しくて」「長い人生」。
問題はそのさじ加減。
後悔は少なめでここまで来たつもり。でも最後の最後まで後悔せずに人生を締めくくれるとは限らない。今甘い生活を読んでいいのか、ジュースを飲み菓子パンを食べてもいいのか、5時過ぎまでゲームやっててもいいのか、、、
言っても「楽しくなければ意味が無い」。ジュースも菓子パンもマンガもゲームも止めていい。代わりになる「楽しい」があるのなら。楽しくない人生を送る選択は、それだけで後悔を生むと言って良い。これは間違いない。
僕は多分、より健康で長生きするのにプラスになるような、そんな楽しいを求めているのだと思う。それが何かは全くわからないが。
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