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2023年5月31日 (水)

おじさんが倒れた

2023/5/20土曜日、日課の祖母訪問の際、激しく嘔吐し、意識不明。病院に運んだものの、意識は戻らないと言う。

余命僅かと言われ、広島やアメリカに居る子供達も帰省してきた。奥さんを始め、家族は延命措置を取るつもりだったが、2、3日経って気持ちが落ち着いたのか、延命措置は取らない方向に変わった。

僕の親父は僕が24歳くらいの頃に旅先で倒れた。救急車で運ばれ、何とか措置が間に合って意識も回復、自分で車を運転出来るほどになったが、それでも後遺症がないわけでもなく、それまでとは一転して人生に生彩を欠いていた。母曰く「あの時死んでいた方が幸せだった」と言うほどに。

おじさんは、頭蓋骨を切開する手術をしたのだという。頭を開くことの意味など素人の僕にわかろうはずもないが、心臓だけがリズムを刻み続ける、死体と紙一重の状態は、端から見ても、たぶん本人も、死んでることと変わりはないだろう。

漠然と「いつ死んでしまったのか」と思う。嘔吐していたときは意識はあったわけだけど、その直後に、プツンと糸が切れるように「終わりが来てしまった」のか。

 何の前触れも無く

 何の準備もなく

年齢は71歳だと聞いた。僕の親父は73歳で他界。おじさんの親父、つまり僕の母方の祖父はおじさんと同じ71歳で他界している。今年のお正月に会ったときの印象では、全然そんな(死んだ祖父と同じ)年齢とは思わなかった。

 そんないつ死んでもおかしくない年齢のようには見えなかった。

おじさんには、子供の頃映画に連れていって貰った記憶が曖昧ながらある。兄弟は、僕の母親、おじさん、そしてもうひとり下におじさんがいる3人。実家は隣町なので、子供の頃はよく電車や、親父の運転する車で泊まりにも行った。

カリオストロ、キングコング、ゴジラ対モスラ、メカゴジラ、、、

クイックス、アルペンスキー、クラッシュローラー、、、

連れて行って貰った時の記憶。自宅で焼き肉を食べる時、「これ(味の素)振った方が美味い」と言っていた。たしかに美味かった。

ゴルフマンガの「ホールインワン」の3巻だけ持っていて、そこから好きになった。

毎年のお正月には親族で集まって、ちょっとしたゲームをした。2年ほどはやらなかったが、今年は祖母の体調が芳しくないこともあって、「最後かも知れないから」とゲームに興じた。何も変わらない談笑と、景色。

 それはもう来ない。

交通事故だって、コロナだって、食中毒だって、例えば蜂に刺された時のアナフィラキシーでも、死ぬ時は死ぬ。老衰の方が珍しいだろうし、意識があっても体が不自由になる辛さに「死んだ方がマシだった」と思うこともあるだろう。

だがしかし、それが自分の身に降りかかるとなると話は全く変わってくる。「他人事」で済まされていたことの多さに驚く。特に予兆がない、全くの不意打ちの場合はさらにその衝撃は大きい。

 自分も多かれ少なかれリスクはあるはずなのだ。

今は特に困ることはない。でも、それはあくまで今この瞬間の話で、明日になれば変わるかも、いや、この1分後には変わるかも知れない。

救急車を呼んで、住所と症状を伝えることなど出来るわけもない。終わりは終わり。ロードすることも出来ない。

祖母はむしろお正月の頃より元気になった。実際母方の家系は女性が長命で、僕の曾祖母も100歳以上まで生きた。だから、長男が祖母より先に他界する可能性は低からずあったし、僕自身母親より先に逝く可能性が高いとすら思っている。

 何か未練があるだろうか。

おじさんには3人の子供が居て、3人は3人とも結婚し、子供も出来た。そう言う意味では「肩の荷が下りた」と言っても良いかも知れないが、同居してない孫達と遊ぶことも少なかっただろうし、未練はないわけがない。

でもきっとそれはほとんど全ての人がそう。未練なく死んでいける人なんて、もしかしたら誰ひとり居ないかも知れない。

今朝長男が長文のコメントをブログに寄せているのを読んだ。「なるほど」という思いと、「まだ若いな」という思い、ただ、それは年月を重ねるだけで埋まるものじゃない。この20年僕は何も変わってないと思うし、

 今倒れようと、30歳で倒れていようと、何が変わるとは思わないほどだ。

僕の父方の祖父は、僕が小学1年の頃に他界している。54歳だった記憶があるが、当時父親は32歳くらい。僕とは全く違った衝撃を受けたはずだが、

 泣いていた記憶はない。

※80歳で他界した母方の祖母のときは泣いていた。これは普段泣くことがない父親だったので、結構強く覚えている

おじさんは自分の父親が死んだ時に泣いただろうか。僕の長男は僕が死ぬ時に泣くのだろうか。僕は僕の母親が死ぬ時に泣くのだろうか。悲しいのだろうか、寂しいのだろうか、、、。

仕事をしていて、従業員の手配が出来ず、最悪「僕ひとり」で店を回していかなければならない状況が来たとしても、それに対する「覚悟」が出来ていれば、そこで狼狽えたり、泣きわめいたりはしないはずだ。その時体調を崩して誰かに迷惑をかけてしまうことがあったとしても、例えば命に関わる事案だったとしても、「覚悟」さえあれば、そこまで不安になったりはしまい。

 不安になる前に不安に押しつぶされるのは、まっぴらだ。

おじさんの死で、おじさんとの思い出を振り返る。いつもちょっと照れたような笑顔で、自信なさげだけど、やわらかな人だった。子供達はきっと涙を流すだろう。でも、父親というのは母親以上に依存度が低い存在なのだ。それは長男次男でも、長女でも変わらない。

子供の中の僕の思い出は、子供達の子供の頃の思い出だけで構わない。遊んでくれたり話をしてくれるのは嬉しいけど、僕は父親に強いコミュニケーションを求めたことも求められたこともない。強いて言えば小学校1年の頃グローブを買ってくれて、一度だけキャッチボールをしたことくらいだ。

 父親なんてそんなもんだ。

 父親の存在なんて、子供達にとって在っても無くても大差ない

まぁよそ様の親子よりは、子供の頃から一緒に過ごした時間は長めなんじゃないかと思うけど。

長男のコメントを読んで、「コレって、反抗期(思春期)なのかもな~」なんてことを思った。僕は第二次反抗期は無かったと記憶しているけど、もし僕が24歳くらいの時に父親が倒れなければ、もしかしたら50歳くらいで反抗期が来たかも知れない。

人はなかなか変わらない。でも、脳卒中で倒れたあとの親父は少し変わったと思う。倒れた翌日、熱海まで車を飛ばして病院のドアを開けた。親父は僕を見て、

 「・・・・ああ〇〇くんか」※僕の名前

と言った。その「・・・・」の時間で、たぶんいろんなことが変わった気がする。

長男よ、父ちゃんもそう簡単には変わらない。自分以外の人は変えられない。自分は「少しだけなら」変えられる。それは諦めじゃない。理解だ。

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