能動的と受動的
前にも触れたことがあるような話だけど、何となく。
スマホがない暮らしを想像するのはなかなか難しい。でも24時間ずっと触り続けてるわけでもない。スマホを触ってない時間(プライベート)は、PCを触ってたり、録画を見てたりする。
スマホ>PC>テレビ
しかし、僕は以前その全てが付かない状況になったときがあった。で、その時一番求めたのは、
紙とペン。
人は必ずしも娯楽を求める生き物ではない。仕事をし、飯を食い、風呂に入って寝る。そんな暮らしを何十年も普通に、当たり前に続けられる人もいる。まぁ世代的には「昭和一桁生まれ」くらいの世代かも知れないが。「いる」じゃなくて「いた」が正しいか。
でも、今の世の中娯楽ゼロで平気という人は存外少ないのではないか。表だって言う趣味らしい趣味でなくても、たとえば昼飯にこだわりがあるとか、年に一度の旅行を楽しみにしているとか、友達とのLINEが好きだということさえ、ある意味娯楽の一環だろう。
つまり人は、「楽しい時間」を求める生き物なわけだ。で、その楽しい時間を摂取するのに一番手っ取り早いのが今の時代だとスマホ、と言う事になると言う話。
会話や書き込みは、一見能動的に見える。がしかし、実際はそのリアクションを期待しているのが本質で、「誰にも読まれない前提で掲示板に書き込む」ことはあまり無い。
そう言う意味では、このブログのように「誰にも読まれなくても書き続けている」のは、異質と言える。てかそれはつまり、「日記と言う趣味は異質」と言ってるのと同じことなわけだけど、
何かを作る、生み出すと言う趣味は、第三者への依存度が低く、コスパが良いと思う。
プラモを作るのも、写真を撮るのも、体を鍛えるのも、自分で能動的にアクションを起こすことは、見たり、聞いたり、読んだりするだけの受動的な行動とは、たぶん本質的に何かが違う。と言うか、
受動的な娯楽には、結果が残りにくい。
そして、
能動的な娯楽に慣れていくと、そこはかとない物足りなさが残る。
映画が趣味の人でも、見終わった後パンフを買ったり、感想を書き込んだりせず、そのまま床について命を消費し続けると、たぶんその映画のことはほとんど忘れてしまう。若く、見た直後であればいろんなことを覚えていられるだろうけど、歳を取り、さらに時が経てば、
タイトルも、内容も、キャストも、セリフのひとつ残らずさえも忘れてしまう。
何かの拍子に思い出すことはあるだろうけど、年に300本映画を観ていれば「忘れにくくなる」というわけでもない。
僕は映画やマンガ、アニメが好きだけど、本当に好きな作品は何度でも見る。それは、自分で作ったデジラマも同じ。ブログも結構読み返すのは嫌いじゃない。
職業にしているマンガ家や小説家はまた違うのかも知れないけど、
※あと映画監督とか
自分が生み出したモノを楽しめるというのは、「拠り所」として結構ありがたいと思うと同時に、
生み出さない時間に不安を募らせたりする。
今見ている映画は面白い。でもそれを誰にも伝えず、感想も書かなければ、それはそのまま、割と短時間に、忘却の彼方へと忘れ去られてしまう。
無かったことになってしまう。
別にそれでも生きて行くことには何の問題もない。その瞬間だけだろうと楽しい時間が過ごせたのならそれでいいのかも知れない。でもなんだろ、何とも言えない寂しさを感じるのだ。
子供が小さかった頃なら、その思い出はまさに「生み出されていた」。旅行でもゲームでも、日々の暮らしのささやかな会話ひとつであっても、僕の記憶と子供の記憶が重なってることで、「何か」が作られていた。まぁ子供に限らず友人や恋人であっても「そう」なのかも知れないけど、
歳を取り、関係性の強い間柄の人間が周りに居なくなると、「対人での生産」はなかなか難しくなる。
まぁ飲み友達とかセフレとかが居ればまた違うのかも知れないけど。
てか、「対人での生産」もまた能動的な行為と言えるだろう。自分だけで完結しないと言う事は、こちらからも何らかのアクションが不可欠になる。壁に向かってひとりごとを呟くのとは違う。
インスタで知り合った友人と他愛のないLINEを交わす。文字だけでもそこには笑顔があり、盛り上がりがある。形としても残る。
だけど、一ヶ月、二週間、一週間もしたら、それを読み返すことはないし、読み返そうにも探すことさえままならないこともある。
デジラマを作るのはそれほどストレスじゃない。良い作品が出来るのは普通に楽しいし、満足感もある。コラボなら喜んで貰えたりもするし、いいねやコメントでコミュニケーションを生み出すことも出来る。まぁ古いネタを掘り起こすのは容易ではないけど。
でも、リアクションが少なくなればモチベも下がる。能動的ではあるものの、「惰性」の占める割合が増えていく。
でも、、、
ブログは割とそうじゃない。
もちろんコメントややりとりは楽しかったし、ピーク時の濃度を思えば、
今は「入念に濾過された水」でしかない
でも、自分で読み返してニヤリとすることは出来る。と言うか、これは果たして「能動的な趣味」と言えるのかとすら思う。
僕は、未来の僕のためにブログを書いている。でも、未来の僕は今の僕とは別の人という気がする。未来の僕が嫌な顔をしないようにマナーや、スタンス、ポリシーみたいなものに気を付ける。誰かが読んでいなくても、生きてさえ居れば未来の僕はそこに居る。
・・・
最近、ブログの更新を止めようかな、と思ったことがあった。まぁホントに止めたところで誰も気付かないかも知れないし、僕も楽になる側面はある。でも、
止めたらどうなるのかを考えたら、「それは娯楽のひとつを捨てることになるぞ」と、もうひとりの僕が言った。
スマホもPCもテレビも、マンガもアニメも映画もプラモも、生活していくギリギリのお金は欲しいけど、娯楽らしい娯楽がほとんど得られないような未来がもし来たとしても、
紙とペンさえあれば、僕は楽しく生きていける気がする。
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