愚痴
僕は僕の中であまり愚痴っぽい人間だとは思ってない。他の人から見た僕がもしそう見えたとしたら、その人は僕以上に愚痴っぽくない人か、
人と自分は違って見えるか。
と言うか、愚痴っぽい人というのは、つまりは回りに期待をばらまいていると言うことなのではないか。誰かに依存して居ればいるほど、それが叶わなかったときにストレスを抱く。回りに期待しなければ、裏切られることもないし、腹が立つこともない。愚痴と不満は直結ではないかも知れないけど、
クズ相手にいら立ちを露わにしているウチは、まだまだ相手を人間として認めている
と言うことなのではないかな、と。
スレッズには大小様々な愚痴が書き込まれる。と言うか、
長文書き込みの大半が愚痴っぽいと言っても過言じゃない。
もちろんそれはその人の感じたことであり、ウソでもなければ、禁止でもない。そう思っちゃったんだからしょうがないと思うし、実際ちょっとした愚痴を見たからと言って僕がその人をブロックしたりもしない。
・・・
似た言葉に「糾弾」という言葉がある。罪状を問いだたし、非難することとある。愚痴や不満と違うのは、「相手の悪が明確であり、非難する側に正義がある」。ただ、これも特に「非難する側が実害を被っていなくても糾弾が成立する」と言う点で、
どこか薄暗い何かを感じる。
別に自分に無関係なら、そこで相手を悪く言う必要はない。政治家が高給取りで、税金をガンガン上げていくことは「実害がある」ので糾弾してもいいと思うけど、ビッグモーターとか、特に自分が住んでるところでもないところで、買ったことも売ったこともない連中を叩くことに、
エネルギーの、つまりは「自分の命の」無駄遣いを感じる。
と言うか、「腹を立てる」というのは、人間だから仕方ないとは思う。でも、同時にそれが自分に対して何の得もないことを自分はわかっているのだ。救急車が来ているのに一旦停止しないようなヤツには、
オマエの大事な人が今すぐに死ね!
と声に出して言ったりするし、タバコのポイ捨てを中央分離帯の植木にしたヤツとかも、
自分ひとりでブレーキが故障して海にでも落ちればいい
と思ったりもするけど、それは別段愚痴とは違うと思う。やはり愚痴とは自分と関係性が強いところで、文字通り「ぐちぐち言う」のが愚痴だろうと。
※「ぐちぐち書く」でも可
僕は以前から、そして常日頃から、「二面性」を重視したいと思っている。スレッズにあった不満を見ながら、
それはある意味ブーメランになってるよな?
と思ったりもするし、たとえばインスタで「インコが死にました」という書き込みに、「いいね」をすることに著しい抵抗を感じたりする。てか、
いいね96は、みんな「インコが死んでいいね」と思ってるわけじゃないだろうに
と思いつつもやはり違和感は拭えない。
心の平穏を維持するには、「出来るだけ」自分が「正義側」に居なければいけない。その上で、「明確な悪」と「不慮の不手際」つまりミスの区別をし、自分の心をコントロールしたいと思う。もっとも、
ミスには「過失」という領域も存在するのだけど。
僕は以前友人から糾弾されたことがある。ひとつは明らかに僕に非がある場合。それは甘んじてそのレッテルを受け入れる。そしてもう一つは、「意図しない悪意を僕が持ったことになっていた」場合。つまり、
ミスを悪だと判断された場合。
非常にもどかしい気持ちになる。「僕はそんなに悪いヤツじゃないよ?」と僕はその時他の友人に話をしたこともある。
悪いヤツとは、つまりは第三者の利益や幸せを、故意に脅かすようなヤツだ。
もちろんそれには命や怪我なども含まれる。コロナ初期に「オレは感染者だ!」とマスクを外して咳をまき散らしたりするのも、明確な「悪」だったろう。
※今でもそう言う人が居るのかも知れないけど
スレッズの話に戻すけど、そこで吐かれている愚痴の多くが、
実は大したことじゃないことが多い。
一言で言えば、「その人と価値観が合わないということに気付いてないレベルの愚痴」が多い。そしてそれは、「気にしなくても済む」レベルであり、
自分の幸せを、他の人に阻害させる権利はない。
だから、そう言う人は気にしないようにしよう!
と言うわけである。
でも同時に僕はそこにある二面性にも気付いてしまう。
誰かに自分の幸せを害される可能性があるなら、その相手のことをそれこそ虫程度の存在だと思えばいい。がしかし、
本当に虫程度の存在だと「思えてしまう」と、それは自分以外の人間の大半が「虫」になってしまうリスクもあり、
人として、自分の尊厳だけが重要な唯我独尊な危険思想の入り口に立っている場合もあるのだ。
割と僕がそうなのだけど。
「愚痴を言う」のは、回りに期待している証拠。でも「愚痴を一切言わない」のは、周りの人間を人間として認めていないことにもなりかねない。
もちろん愚痴を言う言わない以前に、「普通に人としてコミュニケ出来る関係の人」の方が遙かに多いし、そう言う人まで虫扱いするわけじゃないのだけど。
でもスレッズやインスタの愚痴関連の話を見る限りでは、
虫相手に話をしようとしてる人が多いんだよな。
・・・
僕はインスタが好きだ。インスタは、そんな愚痴が凄く少ないと思う。僕も極力ネガティブなコメントはしないようにしているし、そう言う意識は、たぶん僕がフォローしている78人の人はみんなしている気がする。
愚痴っぽいことを言う人をフォローしようとは、少なくとも僕は思わない。
「キラキラしている世界」なのだ。表面だけ取り繕っているのかも知れないし、もっと言えば、「ウソ」かも知れない。でもそれは別にジャニーズだってそうだった。ウソでもそれがキラキラと輝いていて、自分に笑顔をくれる存在だったら、他に何が必要なんだって話。
コミュニケーションの全てがキラキラしている必要はないかも知れないけど、キラキラしていた方が、きっと世界は楽しいと思う。
僕は小学校も中学校も高校も、彼女は居なかったけど結構友達も多くて、「キラキラしていた」と思う。と言うか、普通の人はあとから振り返って「あの時もっと○○していれば、、、」的な後悔と共に、その「青く輝く春」に羨望の眼差しを送るのかも知れないが、
僕は自分がその渦中にあるときから、その希少性、「キラキラさ」を実感して、それを出来る限り活かしたい、楽しみたいと毎日生きていた。
だから僕は別に過去にその類の後悔は抱かないのだけど、
今インスタのキラキラした感じが、そこはかとなく学生時代のキラキラした感じに近いものを感じたりする。
同じくらいの世代の友人たちと、当時の話をする。懐かしいとか楽しかったとか嬉しかったとか。全部過去形に見えて、その実今こうして話していること自体が「幸せ」であることを僕は気付いているのだ。
だから、
僕はスレッズでもインスタでも、ホントはもっとこのブログで触れるような「濃度の高い自分の話」をしたい衝動を抑え、表面的な爽やかで穏やかなキャラを演じている。でも、ウソを付いてるわけじゃない。
僕はそんなに悪い人じゃないからな!
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