僕とゲームセンター
前回ファミコンとの出会いを書いた。多少被るところ、以前書いたこともあるとは思うけど、「2024年53歳の今の僕が覚えていること」として。ゲーセンの想い出を書き残しておく。
世間にインベーダーゲームが現れる1978年以前の記憶はかなり薄い。それほどまでに衝撃が大きかった。
年式的に「べーダー前夜」なのは、1972年に発売されたアタリの「ポン」。がんばって表現するなら、
ブロック崩しのバーを縦にして、画面の左右に一本ずつ配置。二人のプレイヤーでボールを打ち返す。
つまりはエアホッケーのデジタル版。曖昧すぎる記憶だけど、子供の頃連れて行って貰った「白樺リゾート池ノ平ホテル」の螺旋階段の2階の片隅に置いてあったと思う。ワインレッドのカーペットと、ひっそり立つ一台の筐体。ぶっちゃけ遊んだ記憶も曖昧。
そこから大きく時代が動いたのは、1976年に発売された。「ブロックくずし」。これもアタリ。
スタイル的には今のブロック崩しとほとんど変わらない。画面下で左右にバーを移動して、ボールを跳ね返し、画面上部に積まれたブロックを崩していく。
ちなみにポンにもブロックくずしにもそれなりにパチモンが作られたので、果たして僕が遊んでいたのが「本物だったかどうか」はわからない。
二つの共通点は、「十字キーではなくボリュームでの操縦」で、曖昧ではあるけど、「ボタンが無かった」気がする。1Pか2Pかもなく、お金を入れるといきなり始まる感じ。非常にシンプルだ。
インベーダーとブロックくずしの決定的な差は、
こちらから攻撃出来る
と言う点だ(断言)。左右にしか動けないことに変わりはなく、上にいるブロックが多少左右に動くものの「破壊対象」として、そこまで大きな違いがあるわけじゃない。
その上で、いろんなバグ技や、フィーチャーがたまたま重なってブレイクした。
インベーダーが出るまでは「ゲームセンターは存在してなかった」し、ゲームコーナーには、主にエレメカが置いてあった気がする。
※ワニワニパニックみたいなヤツ。もちろんもっと凄くシンプル
豊橋にあった西武デパートの屋上には、先日博士ちゃんで取り上げられた「パンダの乗り物」の前身とも言える簡易ゴーカートや、高さ3m以上の巨大なロボットアトラクションがあった。もっともこれはインベーダーが登場してからのことだったかも知れないけど。
インベーダーがどれほど凄かったのかは、関連番組の枚挙に暇がないけど、曖昧な記憶では、、、
一台150万円の筐体。一回100円のプレイ料金で、一日に何度も「コインボックスを開けないとならなかった」と言う話。
コインボックスには約500枚のコインが入る。ざっと、2週間ほどで「元を取ることが出来た」ほどだった。
それほどまでにインベーダーの魅力は神がかっていた。
それによって「インベーダーゲームだけが置いてあるインベーダーハウス」なるゲームセンターの前身が各地に発生。
実際に見たのは既に廃屋になったものだけど。
※いかにもいかがわしかったし、まだ小学生だったし
ともかく、インベーダーがなければゲーセンは存在しなかったと言っても過言ではないのだ。
・・・
家族旅行には、オヤジの博才によって小学生時代何度も連れて行って貰ったが、沖縄のホテルで強く覚えているのは、ミサイルコマンドと、
パックマンとの出会い
パックマンも凄いゲームだった。インベーダーほどの破壊力はなかったけど、ギャラクシアンが「色が付いただけ」くらいの印象だったのが、パックマンは、
自由自在に移動出来るし、逃げるだけじゃなく攻撃に転じることが出来る!
パックマンは1980年。そして1979年にはセガから「ヘッドオン」という、パックマンに似たドットイートタイプのゲームが登場している。
でも敵を倒すことは出来なかった。
パターン化に関しての「奥行き」もパックマンの凄かった点。そしてたぶんこの頃が「ゲームセンターあらし」のピークだった気がする。
ちなみに、我らが任天堂も「任天堂レジャーシステム」時代、ドンキーコング前夜に、「スペースファイアバード」というシューティングゲームを作っている。ドンキーコングがミヤホンさんのデビュー作かと思ったら、
本作でキャラデザイン(当時で言えばはドット打ち)を担当してた。
スペースファイアバード(SFB)を覚えているのは、ギャラクシアンをパクッたゲームの中で、正確にはシューティングゲームの中で、一番「気持ちよく動かせたから」だ。
ギャラガは1981年。SFBは1980年。つまりギャラガ前夜であって、「SFBの方が連射力があった」。インベーダーもギャラクシアンも単発な世界で、
2発撃てる世界を切り開いた。
※もしかしたら3連射だったかも?
それもあって、僕はギャラガには全然そそられなかったんだよね。てか、もし任天堂が「その道」を突き進んでいったら、全く違う「今」になってたかも知れない。
※幸か不幸かSFBはそんなに売れなかった
・・・
僕は豊川に住んでたのだけど、母方の実家が豊橋にあって、おじさんによくゲームセンターに連れて行って貰った。その時心を奪われたのは、
・クイックス
・アルペンスキー
・ペイントローラー
クイックスはあのオリジナリティ溢れすぎるゲーム性が、アルペンスキーは白い画面が、ペイントローラーはキャッチーなOPジングルが特徴的で好きだった。てか、
ムーンクレスタは難しすぎたし!
あの合体がとにかく上手く出来なくて、生涯トラウマになるレベル。ちなみに、この当時のゲーセンタイトルの多くはファミコナイズされていったけど、ムーンクレスタはスプライト不足でリリースされなかったんだよね。
場所はときわアーケード。後には「スーパーマン」と呼ばれてたけど、当時からそう呼ばれてたかは曖昧。
この頃西武のゲームコーナーで好んで遊んでいたのは、
・ラリーX
単純に2面クリア出来るくらいの「易しさ」が好きだった。結構ラフに「通路をはみ出して動かせたり」、音楽も最高だった。
※ニューラリーX
同じ基板のボスコニアンは苦手だったな~。全方位シューティングでは、
アステロイド
が印象深い。ベクタースキャンの「光を放つ線画」が、メチャかっこよく、思い出すだけでドキドキ出来る。てか、
今本物のベクタースキャンの映像を見ることはほぼ出来ない。
液晶モニターに映るベクタースキャンの映像は、正確にそれを再現したものではないからだ。
※雰囲気的には「ジオメトリウォーズ」が相当近い
バンダイが、定価8万円とかで「光速船」というベクタースキャンのゲーム機を発売して、
※元々は海外のベクトレックスというゲーム機のローカライズ。カセット式
これほど欲しいものは無いかも知れない
と思うほどだったけど、ついぞ手に入れることはなかった。
実機は、これも豊橋の西武にあったおもちゃ売場で見たことがあったけど、試遊は出来なかったと思う。
豊橋のキャロットは、僕が浪人時代何度も足を運んだけど、ついぞスターウォーズ(ベクタースキャンの大型筐体)が動いてるところを見ることはなかったな~。
・・・
現在豊川にあるメガドンキのすぐ横には、当時「マッハII」というゲーセンがあって、薄暗い店内と、「不良全盛期」の怖さもあって、ほとんど足を運んだことは無かったのだけど、一度だけ勇気を振り絞って入ったことがある。もちろん学校では禁止。それも厳重禁止って感じの時代。ただ「停学」という言葉はまだなかったと思う。
そこで遊んだのは「クレイジークライマー」。結構広い店内だったと思うけど、それは僕が小学生だったからか。
まともに動かせなくて、すぐにゲームオーバー。そそくさと退散。ちなみに他のお客さんはひとりも居なかったと思う。
※クレイジークライマーは動かすのにクセがあるのだ
他には、実家からほど近い川の近くにあった「しんぺい」と言う駄菓子屋。ピンボール筐体ふたつと、テーブル筐体が4つくらいあったかなぁ。仏像のように背景に同化したおばちゃんがいて、メダルゲームのルーレットとか、10円玉をはじくゲームとか。
ここでやった記憶があるのは、上昇するロケットを左右に操作して上まで隕石に当てずに移動させるヤツ。名前が出てこない!!口惜しい。キングアンドバルーンとかもあった気がするけど、記憶は曖昧。インベーダーはあったけどあんま面白いとは思わなかったな。
ちなみにこの頃のゲーセンゲームは、まだ「カラー表示ではなく」、画面に半透明のカラーテープを貼って、「その段はその色に見える」みたいなアナログ仕様だった。なので、弾とかも「カラフルに色を変えながら飛んでいく」。僕が知らないだけで、それを再現した移植ゲームとかもあったと思う。
・・・
ゲームセンターへは、任天堂がゲーム&ウォッチを発売する頃を境にグッと足が遠のいていく。連れて行って貰えたらもちろん喜んで遊ぶけど、自分から行きたい遊びたいと思うことはほとんどなくなり、ファミコンが手に入ってからはさらにそれが顕著になる。
ゲーセンに舞い戻ったのは浪人時代。豊橋にあるゲームセンターは一通りチェックしたけど、ちょっと触る程度でそこまで上手くもなかった。
その後、結果大学に受からず、修行と称して静岡県小笠郡大東町
※現掛川市
でひとり暮らしを始めることになり、そこで数多の友人(全員年下)たちとゲーセンブームが燃え上がる。この話はまた覚えてたら。
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